これからの高校教育と大学の在り方について
久しぶりに、時間が取れたのもあり、教育に関係する考えも溜まっていたので、アウトプットしておこうと思い書いてみます。
題名は、ちょっと大袈裟ですが、書いていきます。
まず、ここ最近で参加した、教育関係のセミナーなどを振り返ります。
(何で、参加した毎に書かなかったのか…完全に忙しさとかで、blogの意義を忘れていた…。)
・振り返り
4月28日 数理ウェーブ (
参照:こちら)
名古屋大学で、毎月行われている、数学が好きな人へ向けたセミナーです。
参加者は、下は小学生から、上は80歳ぐらいのお爺さん、お婆さんと幅広い。
多かったのは、中年以降の人だった印象です。
開場する30分ぐらい前に行ったのですが、高校生がすでに集まっており、数学の教科書片手に、色々話をしていました。
話の内容を聞いていると、講演の紹介文にある「数学の用語」を復習していました。
そこから、さらに高校で受けた授業や試験の内容(かな?)を思い返していたりしてました。
たまに、間違ったことを言ってたりしたのですが、遠くから見守ることにしました。
間違いに気づくのも大切ですからね。幸い一人が、「うーん、そうだっけ?ちょっと考えてみよう」と言っていたので、多分正解にたどり着いているでしょう。
意外にも(?)、女子高生も含めた、女性は居ましたね。中には、家族で連れてこられたような人も居ましたが、自分の意志で着ているであろう子の方が多かったようです。
素晴らしいですね。
自分が高校生の時には、こういうものに参加しようとはあまりしなかったですし、そういうものがあることも知りませんでしたね…。
ちょっと話がずれますが、数学オリンピックなどを知ったのは、浪人した時ですし、そういうことを「知る機会」が無かったのは、どうしてだろうと思いますね。
自分に積極性が無かった以外にも、理由がある気がします。地方・田舎は、学力面以外にも差があるというのは、こういうことからも考えられそうではあります。
さて、当日の内容ですが…これは数学マニアの人たちに「こういうものがあるんだよ。」と言うのが目的らしいので、少し内容としては楽しめませんでしたね。
しかし、最後には、急激に大学初等レベルになるので、高校生は果たして分かるのだろうか…と。
(テイラー展開で、多項式近似する話をしていましたが、確か図・グラフが無かった…。後コーシーの積分定理なんかも扱ったような…?)
今後も機会があれば出たいな、高校生諸君がどう変わるかも観察したいなと思っていましたが、後述する「数学教育セミナー」と毎回かぶることになって、この4月の1回しか参加出来ていません。
5月26日 第33回名大数学教育セミナー(参考:
こちら)
これも名古屋大学で、ほぼ毎月行われている、主として現役教員・教育者が意見交換・交流をする場のように思います。
参加者は、学部生は多分0?、院生が2名ほど毎回居る気がします。
その他は、現役教員、退職・退官された元教員が多いですね。
ここには、男性しか(多分)居ませんでした。
愛知県近辺以外からも、割りと参加者が居たりするので、そろそろ自分も意見・質問を出しつつ、色々な話を聞いて行かなければと思っています。
内容については、前半は「新学習指導要領に対してどう捉えていくべきか」と言った内容でした。
後半は、「不確定性原理の反証と新しい定式化」と言う物理の小澤先生のお話でした。
正直後半は、全く分からずだったので(研究者とはどんなものなのかを感じる程度で)、前半の内容のみを少し自分なりにまとめてみます。
「市民的教養としての数学教育を目指して」(浪川先生)
主張は、
『数学は言語である。』だと私は思います。
以下、浪川先生の仰った内容を要約しています。(私個人の意見は、
赤色にして書きます。)
始まりは、「生きる力」の認識の違いにあった。
80年代に最初に起こった、学校における自殺。また、詰め込み教育の問題であった、落ちこぼれ。
その両方を救う考えとして、「生きる力」という、曖昧な表現を使ってしまった。
ゆえに、認識の違いが起こった。
ゆとり教育の始まり。
何年後かに、TIMSS、PISAなどから明らかになる「学力低下」
その中でも数学において一番問題となっているものとして
「読解力や記述式問題に課題」
(読解力も記述、論述力も、両方国語ではないか!国語力の話についてはまた、後で書きます。)
「数式などを含む、広い意味の言語」とすべきだ。
なぜなら、高校進学率95%である現状、準義務教育として見れる。
さらに、高校では国語・英語・数学(一部)が必修科目としてあるのだから、これは「広い意味での言語科目」だとするべきだ。
特に、数学Ⅰにおける教育では、それ(数学が言語であること)を意識させるべき。
生徒が先生に説明するなものではなく、生徒が同じ生徒に対して説明させる環境が理想だ。
以上
大体このような内容でした。
そして、ちょっと私が気になったことは、中高生に対する数学の意識アンケートの結果です。
「数学への生徒の興味」は低い、しかし「今後の数学(を学ぶこと)」に対しては不安を感じ、「数学を好き」だと言う人の割合は低下している。
ということだ。これは、かなり重い問題だ。特に、最後の「数学を好き」だと言う人が少ないと言うのだ。
これは、「数学が嫌いだ」と言う人が多いことと同値ではない。
この現状を見て、「余裕を持った授業計画」が求められるのは当然であるが、それでは学力が一向に伸びない…。(もちろん大学受験の制度を変えなければ、進学校以外の未来が無くなる…)
あっちに転べば、こっちが問題にと、
完全に八方塞がりの状態。
これをどうやって解決していくのか…。
現場の先生は、目の前の生徒で手一杯である。
こんなことを考えているのは、学生や、引退した先生が多い。
そして、その学生や、引退した先生が何か言えば、「現場を知らないから(くせに!!)」となるのだから、もうどうしようもない。
双方の理解と、落ち着いた態度で、どうにか変えて行かなければなりませんね…。
(愚痴でした…)
そういう意味では、この「数学教育セミナー」の集まりと言うのは非常に大切だと思う。
中には、このことも含めた、理想と現場でやることのギャップに悩む現役の教員も何人か参加していらっしゃる様子。そういう人達からも色々学びたい。
(ALL関東教育フェスタなどがあることは、そういう意味では素敵だと思うのだが、何か芯のある、実績のある年配の方が居るのと居ないのでは、大きな差があるだろう。
学生だけの集まりと言うのは、時として自己満足で終わってしまうのです…。)
6月22日 第34回名大数学教育セミナー
前半は、「関孝和先生の和算」について。後半は、2月末から話題になった「第1回大学生数学基礎調査について」。
両方共、お茶の水女子大学の真島先生。
後半についてまとめようかと思いましたが、これは真島先生が言うに、近日修正版とまとめたものがあがるそうなので、載っていないことについていくらか書いていきます。
(詳しい内容に興味がある方は、
こちら)
何故このような調査を行ったかと言うと、日本の(数)学力低下に、世間が注目して欲しかったと言うのが本音だそうです(笑)
そのために、世論を味方に、マスコミを味方につけようとしたと、色々工夫がなされていることを聞いて、大変なんだなあと思いました。
(けど、事実ですよね、マスコミに取り上げられなかったら、誰も何も言わなかったし、そんなことはないと思い込んでいたかもしれない…)
記述力つまり、
『筆記試験の必要性』を訴えたい。(その背後にも理由があるらしいのですが、ここでは危ないかも知れないので省略(笑))
記述式の筆記試験を受けていなかった学生は、多くが理解が足りていなく、マーク式のみで受験した学生は典型的なミスに陥りやすい傾向が見られた。
マーク式と言うのは、
「反応の速さ」を重視するので、「パターン化」することになってしまう。
現役の教員の方も、これについて話をしていた…。やりたくないけど、「大学受験(の実績)」を見ると、どうしてもそうせざるを得ないと。
センター試験を廃止した方がいいのでは?いや、一つの指標として良い問題だと思う。
という話も出たりした。
そして、退官された三宅先生から
「日本の国語の授業は、国語の評価をしていない」と仰られた。
仰るとおりだと私も思い、その皮肉さに笑ってしまった。
三宅先生の真後ろに居たのだから、話しかけるかすれば良かったと今更後悔している。
以上で、この3ヶ月ほどで参加したものを振り返りました。
色々書こうと思っていましたが、たくさんありすぎるので、今回は、今読もう、考えようとしていることと、「国語の授業に対する文句(笑)」を書いて終わりにしようと思います。
・今後考えること
私は地下鉄を利用して大学に通っているのですが、その間することが無いので暇である。
6月前半から、教育関係者のブログ記事やらを引っ張ってきて、それを移動中読んでいたりします。
その内容については、他に知ってもらいたいと思えば、Twitterに投稿し、お気に入りに入れています。(清先生のが大半ですが…)
そして、今後もこれを続けます。
さらに、文科省から発表された
「大学改革プラン」。これを是非読みたいと考えています。
コピー自体は、もう済ませてるのですが、如何せん長いので、どっかで一気に読まないとと思っています。
・国語の授業に対する文句 (個人的な意見です。全部が全部悪いとも思っていません。)
「試験で国語の点数が低い」と、親や教師から
「本を読め、小説を読め」とよく言われたのは、私だけではないはず。
確かに、本を日常的に読んでいる人たちは、国語の点数が高かったような記憶があります。
けれど、そのよく本を読む子のうちにも2種類のタイプが居ると思います。
(A)一般的な本を読む子
(B)ライトノベルや小説を好む子
そして、私の印象では、(A)の子は国語以外も比較的出来る子が多い。(B)については、それほど分かりませんが、あまりいい印象がありません。
この違いは、
「論理力」にあると思っています。
センター試験や、大学入試における国語の試験は、どれぐらい論理的に読めて、それを正確に表せるかだと思います。(私は国語の筆記試験を受けたことは、模試でしか無いので、それほど胸を張れませんが…)
これについて、私の大学受験も含めて、お話したいと思います。
私は、高校3年生まで、自分は国語が苦手で、どうやっても点数なんて取れない、センター試験なんて知りませんよ、という感じでした。
(中学でも良い点数を取ったことはありませんでしたしね…思い込みですね。その度に、親に小説を読めと言われたもんです。)
その結果、高校3年生で受けた、センター試験では80点代でした。(国語は200点満点、現文100点、古文50点、漢文50点)
古文、漢文に至っては、勉強をした記憶が無いので、感で埋めました。それでも現文とドッコイドッコイな点数だったはず…(笑)
こんなにひどい点数を取っても、気にせず私立受験し、浪人することになりました。
そして、浪人したんだし、真面目に勉強してみるかと思いました。(4月までは私立一本と迷ったのですが、3月末から4月中旬にかけて、
国語の勉強の仕方・正答とはどういうことかが分かったのです!)
そこから私が思ったことは、
『「本を読んだこと」が必ず国語力に直結するとは言えない!』
国語の、特に現文では、
「書いてある事から正しいことを導け」と言うのが問題だったのです。
私は、この時までそんな事知りませんでした。
それまでの私は「想像できうることで、最も(自分の感性に)合っていること、または正しいと連想できそうなこと」を選んでいました。(そりゃ当たるわけない)
こうだったらいいのにではないですが、こうあるべきだろうとか思うことはよくありますよね、それを試験に持ち込んでいた。
「勝手に想像していた」
これがダメな点です。数学ならそれを確かめる術があるので良いですが、国語は想像に間違いとかはありません、それは主観であり、正しいのですから。
国語では、
客観的に読めるかどうかが鍛えられてたわけですね。
そんなこと「知っているのが普通だろ」と思う人も多いかも知れませんが、以外に少ないのでは無いでしょうかね…。
理系の子なら、ちゃんとこれを教えてあげれば、「論理力」から比較的簡単に国語の点数も伸びると思います。
これで、私は浪人してからの夏には、120点をウロウロして、秋から冬にかけて140点近辺、本番では、165点とかだったと思います。
センター試験の国語では、時間が足りないと言うことは、あまり起こらないので(少なくとも数学ⅡBのような)、十分に論理性を試される良い試験だと思います。
(古文・漢文は、ちょっと記憶と反応の速さを求められると思いますが…)
そして、この国語、
「直感で解ける」というのを良く聞いたりします。
この直感で解ける人たちが、危ない子たちだと私は思っています。
彼ら/彼女らは、論理力どうこうではなく、「与えられたことからのみ思考できる」状態なのではないかと思うのです。(ちょっと極端ですが…)
つまり、何かを想像したりすることをしない、あらゆることを想定しないで、今あるものを信じる。
何かが異変が起こっても、それが変だと思わない、気づかない。
マンガ脳だとか、言うつもりはありませんが、ライトノベルや(携帯)小説にはそういうものが多い…と感じます。
空想の世界なのだからと言いますが、昔の小説は、ある程度決められている世界観があってその範疇に収まっているように感じます。坊ちゃん、羅生門など、不思議なことはあっても、それが綺麗に収まっているように思えます。
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国語力、論理力をちゃんと鍛えるための授業、定期試験を考えるべきですね。
今の高校・中学では、暗記試験になってしまっています。
和歌を覚えたり、活用を覚えることに意味が無いとまでは言いません。
しかし、その先に何か(活用なら、それを使った品詞分解も見据えるとか、やらせるとか)を置かないと、このままでは、ただの暗記科目であって、理系から煙たがられる科目になるでしょう。
これが三宅先生の仰ったことと私の思ったことの似たところでしょうか。
三宅先生が、私のようなことを思って、そう言ったのかどうかは定かではありません。
次回確かめてきます。
それでは!また、後日近況報告致します!