『期待』と『裏切り』
私は、色んな人の色んな活動に『期待』をします。
『期待』をし、それで私はその人たちの行動を見つめます。
その途中で、『裏切られる』思いをいつも感じる。
特に、最近の学生団体や、学生ベンチャーに興味があるなどをTwitterのアカウント紹介分や、mixiのプロフィールに書いている人たち。
夢や理想、目標を掲げるだけで終わるなんて、勿体無いし、かっこ悪くないですか。
その過程・途中が美しいのだと私は思っているんです。
『何頑張ってんの(笑)』ぐらいの気持ちを持ってる人が多く、頑張っている人を軽視したり、侮辱したりする人が居ますね。
それはとても残念に私は思いますが、今回言いたいこととは、ちょっとずれるので置いておきます。
本題に戻ると、そういう掲げるだけ、チラつかせるだけで終わってる人が多い。
終っていない人は、その理想・目標について真剣に考えていて、いつも頑張っている。
そして、その話をすると活き活きして、話してくれる。本当に考えてるんだなぁと感じる。
確かにこれは主観なのかも知れない。
よく私は、厳しいことを言い過ぎるとか、言われます。けど、それには、『期待』が込められているからです。
私だって、誰にでも言いません。特に年齢を絞れば、高校2年生以上ぐらいにしか厳しいことを直接的に言いません。
高校生以下は、大体私たちの『期待』を裏切ります。
小さいことを言えば、『宿題をやってこない』。これは、1つの期待です。
私は、宿題を出す時に、大体ここぐらいまでは解けて、此処から先は分からないだろうぐらいの予測(期待)をしています。
(けど、これは大体の塾の先生は、それを考えて宿題を出しているでしょう。塾の指導範囲内のことだけやってる人は少ないはず、私もそう思い、最近2年ぐらいは、自作プリントなどを良く使うようにしている。)
そこで、「なんでやってこないの!!」と発狂する人も居ますが、ビックリしますね。あなただって、高校生2年生ぐらいの時は宿題をやらなかったことだってあるでしょ、と。
塾における、最大の期待は、誰しもが持つであろう、志望校への合格でしょう。
特に大学受験に絞れば、その受験が一生を決めるのではないかと思っている人は、多いのかも知れません。
その時に、再度「勉強法」「復習法」などを教えられたりします。
復習がどれだけ大事か、それは分からないかも知れないから、「復習が一番大切だ」ということを教えられる。
だけど、その復習の仕方は習わないし、特に私は、復習の王道や、万人共通の復習の方法なんてないのではないかと思う。
同じように、「勉強法」も1つに定まらないだろう。
色んなやり方(せいぜいその科目に対して5種類も無いだろう)を経て、自分で体得するしかない。
その時に、その科目の真髄をある程度見れるのではないだろうか。
国語・英語だって、単語さえ分かればどうにでもなるわけではないし、数学や物理も公式を覚えているだけじゃどうしようもない。
それを気づかせるために、私は受験生になったとき(3年生だとは限らない)に、ある程度厳しいことは言う。
自分で気づくこと、これが一番大切じゃないのかな。何がいけないとか、何が足りないとか、そういう事を自分で常に考えて、探していかないと。
私たち、先生・講師が出来ることは、その材料を与えたりすることだろう。
答えをすぐに教えたり、復習法・勉強法はコレだと1つに決めたりすることは、やるべきじゃない。
そんな可能性を無くす教育は、しちゃいけない。どうやって間違えるのか、どうやって決めるのか。その子を見てください。
さて、教育論にまで話がずれましたが、これを私は同い年・同じ世代には、思いません。むしろ、同じぐらい生きているのだから、それぐらい考えて生きているだろうと私は思っています。
だから、厳しいことを言っているように聞こえるのかも知れません。
言い訳なんて、もっての外ですよ。そりゃ得意・不得意はあるだろうけどもね。
「私は、苦手なので、ダメでした。」とか言われたら、もう『裏切り』・『失望』ですよ。
苦手なりにでもこうやってみた、ダメなところは見つかった・見つからない、アドバイスをください。
そういう姿勢で居るべきでしょうね。私自身にもそれは言えます。
ちょっと何を言いたいか、分からなくなりましたね。
こちらから、ちょっとブログをまとめようと思いましたが、上手くまとまりませんでした。
2011年4月28日木曜日
2011年4月25日月曜日
問題:任意の四面体を平面で切断するときに,切断面が平行四辺形になるように切断できるか.
こんな問題があるとギョッとしてしまいます。
中学生までの知識で、これは示せるみたいですが(友人談)、このような問題の書き方をすると一般的な中学生は、まず解けないでしょう。
では、これならどうでしょうか。
問題:空間の4点A,B,C,Dに対し,線分AB,AD,CB,CDをそれぞれm:nに分ける点P,Q,R,Sは,平行四辺形の4頂点となることを示せ.(斎藤正彦『線形代数演習』p4-11)
ちょっと中学生でも解ける人が出てくるんじゃないかなという問題のレベルになりますね。
もちろん高校2年生以上ならベクトルや座標(この場合はベクトルの方が遥かに簡単で、座標では解けない…気がします)を使って解くことが出来るでしょう。
この問題の言い換えが数学において非常に重要なことは、数学を学校の試験勉強だけで終わらせなかった人ならば、ほとんどの人が感じ・思っていることでしょう。
(もちろん今回の問題の言い換えは、飛躍し過ぎていて、分からない方が普通かも知れません。(上から下))
大体、学問を学んでいるときに、いきなり分からないところにぶつかることはないはずです。
もし、いきなり分からないと、周りも感じているのなら、それはそうなのかも知れないが、大抵は、自分一人がそう感じることが多い。
それは、そこまでの知識がちゃんと定着していないからであって、ちゃんと段階を踏んだ学習をしていないことが原因でしょう。
それは、数学に限らず、ほとんどの学問に対して言えることでしょう。
もちろん、学問に限らず、スポーツでも同じようなことが言えて、サッカーで、ドリブルが出来ない人が、シュートの練習やヘディングの練習をしたってどうしようもありません。
まずは、自分で練習することです。その時に、練習の見本となる人が、先生だったり、参考書であったりするわけです。
大抵の学問に対して、出版社がそれぞれのレベルにあった参考書を出版しています。それを自分で見つけることです。
相談しても良いとは思いますが、それがあなたに確実に合っているものかどうかは、自分しか分かりません。
特に、大学生は、これを実践すべきでしょう。時間にかなりの余裕があるのに、(または、大学に勉強をしたいと思って、希望を持って入学したのに)全く学問の本質を知ろうとせず、単位を取るだけの試験勉強にだけなっているのなら勿体無い話ですね。
恋愛、サークル活動、学生団体、アルバイトなどなど、勉強以外にもした方が良いものはたくさんあります。
しかし、それはある程度の勉強が基本にあってからすることであって、勉強をしない言い訳に「勉強以外にも学ぶことはある」と言うようでは、本当に「勉強以外のものの大切さ」を感じてはいないでしょう。
特に、私立大学生や、ある一定の偏差値を下回る大学に所属している人は、明らかに「知識の偏り」があります。
そのような人が、学部1年、2年生で「勉強以外のことを学ぶ大切さ」など感じるはずがありません。
それは、本当の「大切さ」からは、かなり外れた・遠いものでしょう。
その後に気づけば、それはまたよしだと思いますが、気づかないで、結婚し子どもが出来たり、教育者として生徒の成長に影響を直接的にもたらす機会が多い人がその理念を元に、物凄いことを言わないことを私は願います。
私自身、勉強をそれほどしたと言える立場でもないですが、児童・生徒に対して、あるいは同じ大学生に対して、もっと意欲を持ち、勉強をしなさいと言いたい。
もちろんその勉強の対象は、数学や国語、英語などの科目に限ったことではないです。そうすれば、大学生になったとき、あるいは、大学を卒業するときぐらいには、自分が何をして生きていたいのかが見えてくるのではないでしょうか。
何もせず、ぼけーっと生きてても、自分のしたいことは見つかるはずがありませんからね。
こんな問題があるとギョッとしてしまいます。
中学生までの知識で、これは示せるみたいですが(友人談)、このような問題の書き方をすると一般的な中学生は、まず解けないでしょう。
では、これならどうでしょうか。
問題:空間の4点A,B,C,Dに対し,線分AB,AD,CB,CDをそれぞれm:nに分ける点P,Q,R,Sは,平行四辺形の4頂点となることを示せ.(斎藤正彦『線形代数演習』p4-11)
ちょっと中学生でも解ける人が出てくるんじゃないかなという問題のレベルになりますね。
もちろん高校2年生以上ならベクトルや座標(この場合はベクトルの方が遥かに簡単で、座標では解けない…気がします)を使って解くことが出来るでしょう。
この問題の言い換えが数学において非常に重要なことは、数学を学校の試験勉強だけで終わらせなかった人ならば、ほとんどの人が感じ・思っていることでしょう。
(もちろん今回の問題の言い換えは、飛躍し過ぎていて、分からない方が普通かも知れません。(上から下))
大体、学問を学んでいるときに、いきなり分からないところにぶつかることはないはずです。
もし、いきなり分からないと、周りも感じているのなら、それはそうなのかも知れないが、大抵は、自分一人がそう感じることが多い。
それは、そこまでの知識がちゃんと定着していないからであって、ちゃんと段階を踏んだ学習をしていないことが原因でしょう。
それは、数学に限らず、ほとんどの学問に対して言えることでしょう。
もちろん、学問に限らず、スポーツでも同じようなことが言えて、サッカーで、ドリブルが出来ない人が、シュートの練習やヘディングの練習をしたってどうしようもありません。
まずは、自分で練習することです。その時に、練習の見本となる人が、先生だったり、参考書であったりするわけです。
大抵の学問に対して、出版社がそれぞれのレベルにあった参考書を出版しています。それを自分で見つけることです。
相談しても良いとは思いますが、それがあなたに確実に合っているものかどうかは、自分しか分かりません。
特に、大学生は、これを実践すべきでしょう。時間にかなりの余裕があるのに、(または、大学に勉強をしたいと思って、希望を持って入学したのに)全く学問の本質を知ろうとせず、単位を取るだけの試験勉強にだけなっているのなら勿体無い話ですね。
恋愛、サークル活動、学生団体、アルバイトなどなど、勉強以外にもした方が良いものはたくさんあります。
しかし、それはある程度の勉強が基本にあってからすることであって、勉強をしない言い訳に「勉強以外にも学ぶことはある」と言うようでは、本当に「勉強以外のものの大切さ」を感じてはいないでしょう。
特に、私立大学生や、ある一定の偏差値を下回る大学に所属している人は、明らかに「知識の偏り」があります。
そのような人が、学部1年、2年生で「勉強以外のことを学ぶ大切さ」など感じるはずがありません。
それは、本当の「大切さ」からは、かなり外れた・遠いものでしょう。
その後に気づけば、それはまたよしだと思いますが、気づかないで、結婚し子どもが出来たり、教育者として生徒の成長に影響を直接的にもたらす機会が多い人がその理念を元に、物凄いことを言わないことを私は願います。
私自身、勉強をそれほどしたと言える立場でもないですが、児童・生徒に対して、あるいは同じ大学生に対して、もっと意欲を持ち、勉強をしなさいと言いたい。
もちろんその勉強の対象は、数学や国語、英語などの科目に限ったことではないです。そうすれば、大学生になったとき、あるいは、大学を卒業するときぐらいには、自分が何をして生きていたいのかが見えてくるのではないでしょうか。
何もせず、ぼけーっと生きてても、自分のしたいことは見つかるはずがありませんからね。
2011年4月24日日曜日
私は、数学が好きです。
中学校までは、特にそういう気はあまり無かった。
とにかく数学・理科は、好きだったのは覚えている。
国語が苦手だったのは、問題の意図を理解していなかったからだ。
選択肢には、想像を膨らませば、その可能性もあるし、その可能性の中でも最も重要であろうものを選び解答していた。
もちろん、それでは、合わない。国語は限られた文章の中から、「確実に言えること」を選ぶのであって、可能性を考える問題ではなかったからだ。
それに気づいたのは、浪人した時に霜栄先生の本を読んで、やっと気づいたのだが…。
未だに思うのは、高校までに「勘」で解いている人は、「可能性」は考えない人たちなのかなと思う。
そこが理系との差なのだと思う。
私は若干理系であるからか、「ありえるだろうすべての可能性」を考えながら、その問題に取り組む。
その可能性はもちろん、私が考える事に限られてしまうのだが…。
物理では、どうしても先に現象を認めてしまわなければならないこともある。
そこから理論を組み立てていく。(数学にも似たように、予想をし、その予想が正しいのかどうかを考えることはあるが、その予想と現象を認めることは、少し異なるように思える。)
数学はしばしば、拡張して考えることをする。自然数を整数に、整数を有理数に、有理数を実数に、実数を複素数に。これは数学で一番初歩的な拡張であろう。
さらに言えば、2次元ベクトルを3次元へ、4次元へ、...、n次元へ。
数学ではあらゆる可能性を考え、それが成り立つのか・拡張できるのかを考えていく。
そんなことを実際、肌に感じたのは、学部2年生になる直前だった。
ちょっと話を戻し、私が数学と言うものに惹かれていった経緯を書いていこう。
私は因数分解は嫌いだった。だから数Ⅰの最初、数と式はつまらなくてどうしようもなかった。
数学なんてものが好きになるなんてこの時は微塵も感じ無かった。
私の高校は、工業高校だったため、1年次には数学Ⅰのみ、2年次に数学Ⅱ・A、3年次に数学Ⅲ・Bを習うのが普通で、それでも進学希望者だけで、それ以外は、数学ⅡとAまでしか習わなかった。
高校2年に上がった時、大学進学すると決めることになり、数学を授業と放課後補習と、塾に通うことにした。
その塾が私にとって、天国だった。先生は数学科出身で、私に数学というものをどう捉えるべきか、初歩的なことを感じさせてくれた。
それからは、公式・定理・あらゆる証明に興味を持ち、モノグラフ(公式集)を暇なときはペラペラめくり、読んで唸り、さらに教科書を読んでいたりした。
それからどんどん数学が好きになり、教員も目指すことになる。
だから教育学部数学科を考え、受験する。だが、失敗する。
もちろん合格した大学はあったが、自分が進学したいと思えるところではなかった。
そして、浪人し、大学への数学と出会った。この時に、モノグラフ(公式集)に興奮していた私は、まだまだ数学の凡人で、それ以上の数学に興奮を覚える内容がそこにあった。
それからは、教育学部数学科ではなく、理学部数学科を目指すことになった。
浪人も完全なる成功にはならなかった。が、同じ数学を好きだと言う人にも出会うことが出来た。
また、最近では、活動も広がり、もっと数学が好きな人との空間を共有することが増えた。
それに感化された部分もあり、私は数学を学ぶために大学院進学を考えた。
そして今に至る。
また、私がこれを通して伝えたい事は、自分が真に好きなことは、長く色々とこなせば見つかるのだと思う。
単純に大学進学したときに、○○学科だったから、それを学ぶしか無いのだと思うのでは勿体無い。
私はたまたま数学科に行くことで、自分が真に学びたい・好きであることが分かった。
学問が苦手なら、大学の勉強以外にも打ち込めることはたくさんある。それをすればいいと思う。
そこで、自分のしたいことが見つかればいい。だけど、いい加減な決め方としてはいけない。
それが本当に好きなのか、そうではないのか。それは自分が熱心にそれに打ち込み、ちゃんと学び・感じなければ分からない。
なんとなくで決めては、もしかすると取り返しのつかないことになるかも知れない。
中学校までは、特にそういう気はあまり無かった。
とにかく数学・理科は、好きだったのは覚えている。
国語が苦手だったのは、問題の意図を理解していなかったからだ。
選択肢には、想像を膨らませば、その可能性もあるし、その可能性の中でも最も重要であろうものを選び解答していた。
もちろん、それでは、合わない。国語は限られた文章の中から、「確実に言えること」を選ぶのであって、可能性を考える問題ではなかったからだ。
それに気づいたのは、浪人した時に霜栄先生の本を読んで、やっと気づいたのだが…。
未だに思うのは、高校までに「勘」で解いている人は、「可能性」は考えない人たちなのかなと思う。
そこが理系との差なのだと思う。
私は若干理系であるからか、「ありえるだろうすべての可能性」を考えながら、その問題に取り組む。
その可能性はもちろん、私が考える事に限られてしまうのだが…。
物理では、どうしても先に現象を認めてしまわなければならないこともある。
そこから理論を組み立てていく。(数学にも似たように、予想をし、その予想が正しいのかどうかを考えることはあるが、その予想と現象を認めることは、少し異なるように思える。)
数学はしばしば、拡張して考えることをする。自然数を整数に、整数を有理数に、有理数を実数に、実数を複素数に。これは数学で一番初歩的な拡張であろう。
さらに言えば、2次元ベクトルを3次元へ、4次元へ、...、n次元へ。
数学ではあらゆる可能性を考え、それが成り立つのか・拡張できるのかを考えていく。
そんなことを実際、肌に感じたのは、学部2年生になる直前だった。
ちょっと話を戻し、私が数学と言うものに惹かれていった経緯を書いていこう。
私は因数分解は嫌いだった。だから数Ⅰの最初、数と式はつまらなくてどうしようもなかった。
数学なんてものが好きになるなんてこの時は微塵も感じ無かった。
私の高校は、工業高校だったため、1年次には数学Ⅰのみ、2年次に数学Ⅱ・A、3年次に数学Ⅲ・Bを習うのが普通で、それでも進学希望者だけで、それ以外は、数学ⅡとAまでしか習わなかった。
高校2年に上がった時、大学進学すると決めることになり、数学を授業と放課後補習と、塾に通うことにした。
その塾が私にとって、天国だった。先生は数学科出身で、私に数学というものをどう捉えるべきか、初歩的なことを感じさせてくれた。
それからは、公式・定理・あらゆる証明に興味を持ち、モノグラフ(公式集)を暇なときはペラペラめくり、読んで唸り、さらに教科書を読んでいたりした。
それからどんどん数学が好きになり、教員も目指すことになる。
だから教育学部数学科を考え、受験する。だが、失敗する。
もちろん合格した大学はあったが、自分が進学したいと思えるところではなかった。
そして、浪人し、大学への数学と出会った。この時に、モノグラフ(公式集)に興奮していた私は、まだまだ数学の凡人で、それ以上の数学に興奮を覚える内容がそこにあった。
それからは、教育学部数学科ではなく、理学部数学科を目指すことになった。
浪人も完全なる成功にはならなかった。が、同じ数学を好きだと言う人にも出会うことが出来た。
また、最近では、活動も広がり、もっと数学が好きな人との空間を共有することが増えた。
それに感化された部分もあり、私は数学を学ぶために大学院進学を考えた。
そして今に至る。
また、私がこれを通して伝えたい事は、自分が真に好きなことは、長く色々とこなせば見つかるのだと思う。
単純に大学進学したときに、○○学科だったから、それを学ぶしか無いのだと思うのでは勿体無い。
私はたまたま数学科に行くことで、自分が真に学びたい・好きであることが分かった。
学問が苦手なら、大学の勉強以外にも打ち込めることはたくさんある。それをすればいいと思う。
そこで、自分のしたいことが見つかればいい。だけど、いい加減な決め方としてはいけない。
それが本当に好きなのか、そうではないのか。それは自分が熱心にそれに打ち込み、ちゃんと学び・感じなければ分からない。
なんとなくで決めては、もしかすると取り返しのつかないことになるかも知れない。
2011年4月22日金曜日
本日、斎藤毅先生(ホームページ)の談話会が中央大学理工学部(詳細)で開催されたので、参加してきました。
内容については、詳細に書いてある通りで、フェルマーの最終定理についての外枠から、ちょっと内部へのお話でした。
1時間と言う短い時間でしたが、その1時間で数学のある世界を眺め、感じることが出来ました。
残念ながら、内容を全て理解するぐらいの学力・知識が私には無かったのですが、周りの斎藤先生の話を聞いている姿勢・熱意が物凄く、とても興奮を覚えました。
本当に数学が好きな人たちが集まっている環境。これを肌に感じました。
大学院への憧れは、そこにもありますね。
こんな感想しか今は書けませんが、自分の今の場所(知識や、学習度的に)が分かり、類体論や保型形式がどう繋がっているかが見えてきました。
後、数学の教師になる人は、本当に数学が好きな人であって欲しいと切に願うことを改めて感じました。
別に大学入試や、数学オリンピックの少しこねくり回した数学は解けなくても良いと思います。
けど、数学は好きな人であって欲しい。そんな人が前に立って教えて欲しい。
内容については、詳細に書いてある通りで、フェルマーの最終定理についての外枠から、ちょっと内部へのお話でした。
1時間と言う短い時間でしたが、その1時間で数学のある世界を眺め、感じることが出来ました。
残念ながら、内容を全て理解するぐらいの学力・知識が私には無かったのですが、周りの斎藤先生の話を聞いている姿勢・熱意が物凄く、とても興奮を覚えました。
本当に数学が好きな人たちが集まっている環境。これを肌に感じました。
大学院への憧れは、そこにもありますね。
こんな感想しか今は書けませんが、自分の今の場所(知識や、学習度的に)が分かり、類体論や保型形式がどう繋がっているかが見えてきました。
後、数学の教師になる人は、本当に数学が好きな人であって欲しいと切に願うことを改めて感じました。
別に大学入試や、数学オリンピックの少しこねくり回した数学は解けなくても良いと思います。
けど、数学は好きな人であって欲しい。そんな人が前に立って教えて欲しい。
2011年4月21日木曜日
2011年4月7日木曜日
素数が無限個ある証明方法
もちろん、学部4年生であるので、幾つか証明方法があるのは知っている。
今日考えるのは、ユークリッド『原論』にある証明方法についてである。
このような証明方法である。
しかし、私が思うことは、最後の素数
を決めたときに
でも、
でも新たな素数を作ることが出来ると思う。
が素数のとき、
は明らかなので
も因数分解は出来ない。
なぜ、ユークリッド『原論』では、それまでの素数の積に限定したのか。その方が美しいからであろうか?
オイラー積を考えたら、その方が美しいから(素数について考えているのだから)だと言う結論に至りつつある。
オイラー積、リーマンのゼータ関数、エラトステネスのふるいの関連については、またそのうち書きたいと思います。
もちろん、学部4年生であるので、幾つか証明方法があるのは知っている。
今日考えるのは、ユークリッド『原論』にある証明方法についてである。
素数が有限個だと仮定し、それぞれの素数をただし、
は定数である。
を考えることによって、背理法により証明が終わる。
このような証明方法である。
しかし、私が思うことは、最後の素数
なぜ、ユークリッド『原論』では、それまでの素数の積に限定したのか。その方が美しいからであろうか?
オイラー積を考えたら、その方が美しいから(素数について考えているのだから)だと言う結論に至りつつある。
オイラー積、リーマンのゼータ関数、エラトステネスのふるいの関連については、またそのうち書きたいと思います。
2011年4月4日月曜日
勉強の仕方、復習の仕方
私は、昨日生徒を授業中に泣かせてしまいました。
どうして泣かしてしまったのか。
その概要を話すために、具体的例も混ぜながら書いてみます。
という、前提があります。
そこで、無限級数の問題。(私が2問ほど、手本に解いた状態)
部分分数分解を使う問題が出てきた。
もちろん、無限級数のそれぞれの項に当たる一般項を求め、部分和を求めて極限を取ると言う操作自体は覚えている。
しかし、一般項を求めた時点で、その一般項の極限
を無意識でしようとする。
まぁ、よくある話なのだが、目標がnで表される何かだと思い一般項にもnが含まれてるからと勘違いしたんだろう…。
それは仕方ないなと、思いながら次の部分和
を求める。
ここで、止まる。数列の復習をしていれば、「いろいろな数列の和」などで扱う部分分数分解をして、処理して上手く消して部分和を求める。
これがスムーズに出来ない。しまいには、それぞれの項を出し、通分していこうとしていた。
そこで、私はストップをかけ、「数列の復習はしたんだよね?部分分数分解という言葉は、覚えてる?」
その呼びかけに対し、無言というか、首を傾げる。
「復習は、どうやってやってるの?」と聞くと、一枚のプリントを持ち出した。
そのプリントには、等差・等比数列の一般項、和。∑の計算の仕方。階差数列の一般項の出し方。
等比型の漸化式の解き方、数学的帰納法の解き方。教科書を丸写ししたかの様な、公式を羅列したものだった。
「こういうプリントを作って、問題は解いたの?」と聞くと、「解いてないです。どの公式が部分分数分解ですか?」
と聞き返されたので、「このプリントには乗ってないね」というと、「じゃあ、どこの教科書を写せばいいですか?」と言う。
そこで、ちょっとキツイけども「こんなプリントを作っても、復習とは言わないよ」と言うと黙りこむ。
「復習って言うのは、その問題・単元が解けるようになって、初めて復習が終わった・出来たと言うんじゃないかな?」
というと、顔を背ける。
「そうじゃない?こんな公式を書いて覚えるだけで、満足?問題が解けて、初めて満足できるし、次に進めるんじゃないかな?」というと、泣き出してしまった。
泣きながら、「だって、他の先生がノートに公式を書けって…」というから、「確かに公式を一箇所にまとめるというのはいいと思うけど、それが使いこなせて、数列だったら数列に関する問題が完璧とまでは行かなくても、9割解けるぐらいになってようやく、復習できたと言うでしょう?現に、数学Bで習う部分分数分解をして和を求めるという問題が解けていないんだから、復習が出来ていないんだよ。」
ここで、5分ぐらいは、気持ちが滅入ったのだと思うけど、声が出せないような泣き方になったので、いろんな話を横でしてた。
部活動でも、料理でも、何でもそうじゃないかなって言う話。次のステップに進むには、そのためにはと。
頭を立てに振ったり、横に振ったりは出来てたので、質問しながら話をしていた。
それから生徒が「じゃあ、復習の仕方、勉強の仕方ってどうすればいいんですか?」と聞いてきた。
私は、「そんなの王道が一つあるわけじゃないし、君に合うやり方があるはずだよ。公式をまとめて、全部完璧にこなせる人も居れば、出来ない人も居る。自分で勉強方法は見つけなきゃいけない。そのために、私たち先生は、アイディアを出したりする。けど、それがいつでもあなたにあった勉強方法で、復習ができる、勉強ができるようになるかはやってみた本人じゃないと分かんない。」
生徒は首を傾げ、「じゃあ、私どうしたらいいのか分からない。」と。
「じゃあ、今日は残りの時間を使って、あなたに合いそうな勉強方法を考えよう。」とした。
この後、それを30分から40分して、授業は終わった。「明日(4月4日)、どうやって復習して、どうなったか聞くからね」と聞いたら「はい、大丈夫です。頑張ります。」と答えてくれた。
良かったよかったと。
さて、ここでですが、途中の太字部分が今回考えたいことです。
私は常々このように考えています。勉強法・復習法に完璧な解答はないと思ってます。
人間の生き方、人生の歩み方に完璧な解答がないのと同じぐらいそう思っています。
もうちょっと進んだ(分別のある人に対してなら)、宗教とは違うという話もします。
もちろん、ある程度の決まりごとはあるはずです。人生の歩み方で、人を殺めてしまっては、人道を外れていると言われるのと同じぐらいに。
そのある程度の決まりごとにも、いくつかのケースはあります。
復習をし、前までのステップ全てが分からないと、次のステップに進んじゃダメかと言えば、そうではないと思います。
少し、次のステップに進んでみたら、前のステップのある部分が見えたりすると思います。
そうして、体系を整えていくんじゃないんでしょうか。
今回のことで言えば、部分分数分解の基本が見えないのは、ご法度です。でも、部分分数分解でも、かなりややこしい問題は、解けなくてもいいと思っています。
例えば、こんな問題です。
こんな問題が、今高校3年生になったばかりの生徒は解けなくても良いと思っています。
(もちろん、難関校受験をする人なら、そのうちマスターして欲しいですが)
だから、本屋などに「勉強法の極意!」みたいなのがあると、ムッとして、手に取って読んでみます。
まぁすると、大体書いていることは、「そうすれば出来そうだな」と思うようなことが多いです。
けど、そう言う本も大体「勉強の仕方は幾つかあることを」明示させています。
私が今欲しいのは、「成功法」より「失敗法」なんじゃないかと思いますけどね。
どうしたら失敗するのかというのは、非常に重要で、なぜダメだったかを考えた方が、次に繋げられるはずです。
なぜ成功したのか。というのは、なかなかに「運」に頼ってるものもありますからね。
例えば、最近聞いた話だと、どうして教員採用に受かったのか。
その先生はこう言いました。「私立の中学・高校で、その学校の校長が私の親戚だった」と。
そんなの聞いても、どうしようもないですからね、私たち。
だから、もしこの記事を受験生が見たのなら、今の勉強法・復習法を見直して、果たしてこれが正解かとか考えるのではなく、どこに失敗する要因があるのだろうかと考えた方が良いと思いますよ。
大体自分の思ったように、知識・学力がついてなかったら、どこかに要因があることが多いと思います。
もちろん、時間をかけてじっくりやらなければならないこともありますが、高校の勉強に限っては、そこまで長く辛抱強く、粘ってようやく獲得できるものというのはないでしょう。
せいぜい1ヶ月,2ヶ月で、半年や1年はないです。1ヶ月,2ヶ月やってみて、何か力ついてないなーと思ったら、今一度見直しましょう。
客観的に見てもらうためにも、他人に相談するのもいい事だと思います。
そういう時に、同い年、先輩、はたまた先生。何人かに聞いてみることは大事です。
誰か信頼できる1人に…と思うかも知れませんが、それじゃ客観性はあまり得られないと思いますよ。
頑張りましょう。僕も頑張ります。
私は、昨日生徒を授業中に泣かせてしまいました。
どうして泣かしてしまったのか。
その概要を話すために、具体的例も混ぜながら書いてみます。
授業中の単元は、数学Ⅲの極限。
4月2日に数列の極限、4月3日(昨日)で無限級数の話をしていたときのことだった。
説明を一通り済ませ、問題演習に移るところ。
ちなみに、それまでに私は「数列の復習をしておくこと、数Ⅲの最初で躓くことになるから」
と伝え「数列の復習」をすることを意識させた。
本人もそれを覚えており、4月2日から「数列の復習しましたよ!」と張り切っていた。
という、前提があります。
そこで、無限級数の問題。(私が2問ほど、手本に解いた状態)
部分分数分解を使う問題が出てきた。
もちろん、無限級数のそれぞれの項に当たる一般項を求め、部分和を求めて極限を取ると言う操作自体は覚えている。
しかし、一般項を求めた時点で、その一般項の極限
まぁ、よくある話なのだが、目標がnで表される何かだと思い一般項にもnが含まれてるからと勘違いしたんだろう…。
それは仕方ないなと、思いながら次の部分和
ここで、止まる。数列の復習をしていれば、「いろいろな数列の和」などで扱う部分分数分解をして、処理して上手く消して部分和を求める。
これがスムーズに出来ない。しまいには、それぞれの項を出し、通分していこうとしていた。
そこで、私はストップをかけ、「数列の復習はしたんだよね?部分分数分解という言葉は、覚えてる?」
その呼びかけに対し、無言というか、首を傾げる。
「復習は、どうやってやってるの?」と聞くと、一枚のプリントを持ち出した。
そのプリントには、等差・等比数列の一般項、和。∑の計算の仕方。階差数列の一般項の出し方。
等比型の漸化式の解き方、数学的帰納法の解き方。教科書を丸写ししたかの様な、公式を羅列したものだった。
「こういうプリントを作って、問題は解いたの?」と聞くと、「解いてないです。どの公式が部分分数分解ですか?」
と聞き返されたので、「このプリントには乗ってないね」というと、「じゃあ、どこの教科書を写せばいいですか?」と言う。
そこで、ちょっとキツイけども「こんなプリントを作っても、復習とは言わないよ」と言うと黙りこむ。
「復習って言うのは、その問題・単元が解けるようになって、初めて復習が終わった・出来たと言うんじゃないかな?」
というと、顔を背ける。
「そうじゃない?こんな公式を書いて覚えるだけで、満足?問題が解けて、初めて満足できるし、次に進めるんじゃないかな?」というと、泣き出してしまった。
泣きながら、「だって、他の先生がノートに公式を書けって…」というから、「確かに公式を一箇所にまとめるというのはいいと思うけど、それが使いこなせて、数列だったら数列に関する問題が完璧とまでは行かなくても、9割解けるぐらいになってようやく、復習できたと言うでしょう?現に、数学Bで習う部分分数分解をして和を求めるという問題が解けていないんだから、復習が出来ていないんだよ。」
ここで、5分ぐらいは、気持ちが滅入ったのだと思うけど、声が出せないような泣き方になったので、いろんな話を横でしてた。
部活動でも、料理でも、何でもそうじゃないかなって言う話。次のステップに進むには、そのためにはと。
頭を立てに振ったり、横に振ったりは出来てたので、質問しながら話をしていた。
それから生徒が「じゃあ、復習の仕方、勉強の仕方ってどうすればいいんですか?」と聞いてきた。
私は、「そんなの王道が一つあるわけじゃないし、君に合うやり方があるはずだよ。公式をまとめて、全部完璧にこなせる人も居れば、出来ない人も居る。自分で勉強方法は見つけなきゃいけない。そのために、私たち先生は、アイディアを出したりする。けど、それがいつでもあなたにあった勉強方法で、復習ができる、勉強ができるようになるかはやってみた本人じゃないと分かんない。」
生徒は首を傾げ、「じゃあ、私どうしたらいいのか分からない。」と。
「じゃあ、今日は残りの時間を使って、あなたに合いそうな勉強方法を考えよう。」とした。
この後、それを30分から40分して、授業は終わった。「明日(4月4日)、どうやって復習して、どうなったか聞くからね」と聞いたら「はい、大丈夫です。頑張ります。」と答えてくれた。
良かったよかったと。
さて、ここでですが、途中の太字部分が今回考えたいことです。
私は常々このように考えています。勉強法・復習法に完璧な解答はないと思ってます。
人間の生き方、人生の歩み方に完璧な解答がないのと同じぐらいそう思っています。
もうちょっと進んだ(分別のある人に対してなら)、宗教とは違うという話もします。
もちろん、ある程度の決まりごとはあるはずです。人生の歩み方で、人を殺めてしまっては、人道を外れていると言われるのと同じぐらいに。
そのある程度の決まりごとにも、いくつかのケースはあります。
復習をし、前までのステップ全てが分からないと、次のステップに進んじゃダメかと言えば、そうではないと思います。
少し、次のステップに進んでみたら、前のステップのある部分が見えたりすると思います。
そうして、体系を整えていくんじゃないんでしょうか。
今回のことで言えば、部分分数分解の基本が見えないのは、ご法度です。でも、部分分数分解でも、かなりややこしい問題は、解けなくてもいいと思っています。
例えば、こんな問題です。
こんな問題が、今高校3年生になったばかりの生徒は解けなくても良いと思っています。
(もちろん、難関校受験をする人なら、そのうちマスターして欲しいですが)
だから、本屋などに「勉強法の極意!」みたいなのがあると、ムッとして、手に取って読んでみます。
まぁすると、大体書いていることは、「そうすれば出来そうだな」と思うようなことが多いです。
けど、そう言う本も大体「勉強の仕方は幾つかあることを」明示させています。
私が今欲しいのは、「成功法」より「失敗法」なんじゃないかと思いますけどね。
どうしたら失敗するのかというのは、非常に重要で、なぜダメだったかを考えた方が、次に繋げられるはずです。
なぜ成功したのか。というのは、なかなかに「運」に頼ってるものもありますからね。
例えば、最近聞いた話だと、どうして教員採用に受かったのか。
その先生はこう言いました。「私立の中学・高校で、その学校の校長が私の親戚だった」と。
そんなの聞いても、どうしようもないですからね、私たち。
だから、もしこの記事を受験生が見たのなら、今の勉強法・復習法を見直して、果たしてこれが正解かとか考えるのではなく、どこに失敗する要因があるのだろうかと考えた方が良いと思いますよ。
大体自分の思ったように、知識・学力がついてなかったら、どこかに要因があることが多いと思います。
もちろん、時間をかけてじっくりやらなければならないこともありますが、高校の勉強に限っては、そこまで長く辛抱強く、粘ってようやく獲得できるものというのはないでしょう。
せいぜい1ヶ月,2ヶ月で、半年や1年はないです。1ヶ月,2ヶ月やってみて、何か力ついてないなーと思ったら、今一度見直しましょう。
客観的に見てもらうためにも、他人に相談するのもいい事だと思います。
そういう時に、同い年、先輩、はたまた先生。何人かに聞いてみることは大事です。
誰か信頼できる1人に…と思うかも知れませんが、それじゃ客観性はあまり得られないと思いますよ。
頑張りましょう。僕も頑張ります。
2011年4月1日金曜日
昨日の夜にasahi.comさんで見たニュースについて考えてみようと思います。
この記事について、私なりに考えてみようと思います。
twitterの方でも若干触れましたが、それも再度書いて行きます。
私は、この行為・政策に反対です。
もしかすると、この記事を読んだ人には、「立派なことじゃないか!ボランティアこそ…云々」とあるかも知れない。
だが、良く考えて欲しい。ボランティア活動自体は、私は良いことだと思うし、ボランティアの知識、または
現地で振り分けをする状態が整っていれば、学生を含む、ボランティアの知識がない人でも、参加すればいいと思う。
しかし、それと大学の単位は、全く別物に思える。
「そりゃ、数学科だからでしょ?福祉系や、介護などの学生なら話は別では?」
とあるかも知れない。しかし、それもおかしい。
大学の講義までを捨てて、ボランティア活動に勤しむのは、その人の問題で、そういう活動に興味があり、将来海外青年協力隊などになりたいというのなら、是非やるべきだろうと思う。
だが、それと単位認定がどう結びつくのか。
では、教員になりたい人は、教育実習や、塾講師などの実践を積んだ方が良くて、座学という物に意味が無いと言っているのとほぼ同じである。
座学と実習は、違う。そもそも、大学の講義というものが無意味だと言っている気がしてならない。
まぁ、大学の講義を代返や、自主休講をしている人よりも、ボランティア活動をしている人の方が、良い学生であるかも知れないが、それと単位認定は、話が違うだろう。
被災者への「特別単位認定」なども、今後合ってはならないと私は思う。
それこそ、平等のものじゃなくなる。
例えば、「特別対策」として、普段は課さない、レポートなどで、単位を認定するなどなら分かるが…。
どうも、今日の教育状態は、波乱万丈ですね。
教科書が厚くなったと、盛り上がっている人たちも、私にはよく分かりませんが。
さて、話は変わりまして、教育実習先から連絡が一向に来ない。
2月20日ぐらいに電話して、3月に折り返し連絡をすると言われていたのだが…。
なんというか、企業などに比べて、公務員というのは、いい加減な気がします。
首・倒産というものが無いからなのか…。
前にも話しましたが、この折り返し連絡事件は、もう3回ほど実習先とやっています。
私の携帯の電話番号は、向こう側に3回も結果的に伝えていることになるんですよ…。
震災ボランティアの単位認定、全大学に要請へ 文科省掲載元:asahi.com
文部科学省は全国の国公私立大学に対し、学生が東日本大震災の被災者支援ボランティアに参加した場合、その活動を大学の単位として認めるよう要請する方針を固めた。震災から約3週間がたち、被災地でも徐々にボランティアの受け入れ態勢が整うなか、学生による被災地支援の動きを後押しするねらいがある。
今週中にも各大学に、ボランティア活動を単位認定すること▽ボランティア活動のため休学する学生について、その間の授業料を免除すること▽保険に加入してケガなどに備えるよう学生に周知徹底することを求める文書を出す。
東日本大震災の発生当初は、被災地で食料やガソリンなどが不足し、ボランティアの学生が大勢で現地入りした場合、被災者に行き渡るべき物資を学生が消費してしまう懸念があった。
また、各地から支援に集まってきた人たちに仕事を割り振るボランティアセンター機能も整備されておらず、「募集がかかるまでは現地に行かなくてもできる支援活動を」(明治大学)と、被災地入りを自粛するよう学生に呼びかける大学もあった。
その後、被災地では物資不足は完全に解消されていないものの、被災各県のホームページなどでボランティアの募集が始まり、春休み中の学生たちが相次いで現地で活動を始めている。こうした状況から、文科省は学生のボランティア参加を推奨するねらいを込めて、通知を出すことにした。(青池学)
この記事について、私なりに考えてみようと思います。
twitterの方でも若干触れましたが、それも再度書いて行きます。
私は、この行為・政策に反対です。
もしかすると、この記事を読んだ人には、「立派なことじゃないか!ボランティアこそ…云々」とあるかも知れない。
だが、良く考えて欲しい。ボランティア活動自体は、私は良いことだと思うし、ボランティアの知識、または
現地で振り分けをする状態が整っていれば、学生を含む、ボランティアの知識がない人でも、参加すればいいと思う。
しかし、それと大学の単位は、全く別物に思える。
「そりゃ、数学科だからでしょ?福祉系や、介護などの学生なら話は別では?」
とあるかも知れない。しかし、それもおかしい。
大学の講義までを捨てて、ボランティア活動に勤しむのは、その人の問題で、そういう活動に興味があり、将来海外青年協力隊などになりたいというのなら、是非やるべきだろうと思う。
だが、それと単位認定がどう結びつくのか。
では、教員になりたい人は、教育実習や、塾講師などの実践を積んだ方が良くて、座学という物に意味が無いと言っているのとほぼ同じである。
座学と実習は、違う。そもそも、大学の講義というものが無意味だと言っている気がしてならない。
まぁ、大学の講義を代返や、自主休講をしている人よりも、ボランティア活動をしている人の方が、良い学生であるかも知れないが、それと単位認定は、話が違うだろう。
被災者への「特別単位認定」なども、今後合ってはならないと私は思う。
それこそ、平等のものじゃなくなる。
例えば、「特別対策」として、普段は課さない、レポートなどで、単位を認定するなどなら分かるが…。
どうも、今日の教育状態は、波乱万丈ですね。
教科書が厚くなったと、盛り上がっている人たちも、私にはよく分かりませんが。
さて、話は変わりまして、教育実習先から連絡が一向に来ない。
2月20日ぐらいに電話して、3月に折り返し連絡をすると言われていたのだが…。
なんというか、企業などに比べて、公務員というのは、いい加減な気がします。
首・倒産というものが無いからなのか…。
前にも話しましたが、この折り返し連絡事件は、もう3回ほど実習先とやっています。
私の携帯の電話番号は、向こう側に3回も結果的に伝えていることになるんですよ…。
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