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2012年12月27日木曜日

2012年11月、12月に参加した数学教育関係の講座、セミナーなどについて簡単にまとめておきます。

第36回 名古屋大学数学教育セミナー (参考:こちら)
前半 大平徹先生『バランス制御から集団追跡と逃避』
後半 青山和裕先生『高等学校数学科での統計指導について』

前半について

  • 指一本で指し棒のバランスを取る.このときに,片方の手では何かを振ってもらうとバランスが取りやすい.
  • 確率共鳴:ノイズを適度に加えることで,聞こえなかった情報を見えるようにする.
  • このノイズの強さをチューニングする.
  • 視力;目を瞑って,立っているだけでも1分経てばフラフラしだす.
  • これは身体の重心を見れば分かる.
  • 身体にテキトウな振動を与えると重心が良い方向に.
後半について

  • 教育現場(高等学校)からの疑問と不安の声
  • これを高校の数学でやる必要はあるのか.
  • 入試ではどのように出るのか.
  • 「ペーパーテストではかれるものか」...ここに数学教育の問題がある
  • 必要なのは使い方であって,問題解決能力を育てることにある.
  • 受験向け過ぎない授業を行う必要.
  • 統計の導入は,日本が一番遅れている.(初めに導入した国とは20年の遅れ)
他に、学校の現場で使える教材を幾つか紹介してもらいました。
(あと、統計の嘘について簡単に話しておられました)
教材の紹介;
Bowland Japan,まなぼう統計,統計活用授業のための教材サイト,センサス@スクール


数学教育学会『数学教育の緊急的課題に対する総合的研究会』(参考:こちら)
明治大学リバティータワーに行って来ました。
(会場案内がいい加減だったのがちょっと不満…。図書館の守衛さんありがとう)

  • 寛容な数学的精神(純粋数学にこだわり過ぎない)
  • 統計を利用して,数学の便利さを伝えよう.
  • 医療も医者も統計的なものを磨いている.(過去の患者などを参考にする)
  • 統計と数学の違いは,物理と数学の違いに似ているのかも知れない(現れる現象から帰納的に定義されるのか,演繹的に定義するのか.)
  • ゆとり教育がダメだったとは,マスコミの言葉である.(日本数学会や,教育委員会ではそのような見解は無い)
  • 数学者でも統計的なミスを犯す.(「今の若者(の全体)は数学が出来ない」→実際は,批判している人たちの多くが数学が出来た人の集合であるので比較参考にできない.)
  • 部分積分,置換積分は容量的にもハードではないか.昔は高校には無かった.(八木先生)
  • 昔の生物には単元としてDNAは無かった.生物科の先生方は勉強をしたのだ.ならば数学科も統計を勉強すべきだ.
  • 数学の二面性:数学的思考と手段.
  • 実は統計の授業を情報の授業で学んでいることもある.
  • たくさん時間のある高校,例えば付属高校で進学先がほぼ決まっている高校においては,理想的な数学教育は出来るが...
  • 入試制度の問題はいつも取り巻く.
  • 意見を述べさせる教育.(イギリス,フィンランド)
  • データに対して適切なグラフの種類を選ぶことが出来ない.(実用的ではない現状の数学教育の表れ)
  • 統計教育の一応の基準も存在している.(海外);こちら
長岡先生や、八木先生、藤田先生を(遠くから)見ることが出来て、感動...!!

お偉いさんは何を考えているか分からない、自分たちがお金を稼げればいいと思っている、などとよくやり玉にあげられたりしますが。
ここ最近、色んな数学教育を考える集まりにいらっしゃる先生方は、皆さん、真面目に教育を考えており、理想を追求しようとしているのを感じます。
それは、多分生活的、精神的に余裕がある方々だからなのかも知れませんね。

まだ私が会ったことのないのは、文部科学省の人たちぐらいでしょうかね。

現場は大変かも知れませんが、日本の未来を考えるためにも頑張ってもらいたい。
もちろん、私もその現場に飛び込む気があるので、無責任な応援のつもりはありません。

2012年8月18日土曜日

『食うものと食われるものの数学』(著作:山口昌哉)

2010年に新しく(?)刊行された、

何故、新しい本を読まなかったのかと言われると、「大学の図書館に無かった」と言う理由です。

この本を知るキッカケになったのは、tamamiさんの『TETRA'S MATH 数学と数学教育』と言うブログの記事です。
そちらの記事も是非読んでみてください。

まずは、私個人の感想とまとめを簡単に書きます。

この本は、大きな2部構成になっています。
前半は「数学という考え方」について書いてあります。これだけでも十分、数学と言うものが何かと言う大枠は捉えられます。

むしろ後半のメインテーマである「食うものと食われるものの数学」は実際に数学を用いた話が多くあり、著者の専門分野(非線形偏微分方程式)の初歩(だと思われる)微分方程式の話がたくさん出てきますが、正直微分方程式とあまり仲良く無かった私からすると読むのが大変でしたので、一般の社会人が読むには、ちょっと無理があるのではと。
(実際、私も流し読みしたところ多いですし…)

ただ、経済学部などで、微分方程式を扱ったりしているのに、何をしているか(連立微分方程式など)、何が始まりか分からない人にとっては、かなり良い話が書かれていると思いました。

後半の言葉で、「非論理的なものに対して、反論する意味は無い」という言葉は、かなり極端だけども正論だなと感じました。
また、「数学が苦手と言うだけで、文系を選択すること」

ジャムの話もとても面白かったし、これは高校生の等比無限級数の導入に良いと思えました。
(収束・発散、そしてどれほど食べればジャムは残るか、残らないか。)

少し、前半のことを詳しく書いておきます。

数学の2つの見方、「数学のあらさ」と「数学の几帳面さ」を遠くに見える木にいる鳥が何羽居るのかを例にあげて導入して行きました。

確かに、数学では似たものを同一と見ることもありますね。(位相幾何学における、ドーナツ・浮き輪・1つの取ってがあるコーヒーカップなど)

しかし、そこにもしっかりとした「定義」が組み込まれていると。

時には大雑把に、時には几帳面にという2つの面があることを色々な例を交えつつ書いてくれています。

ふと、昨日考えたのですが。

例えば、「円の定義」を導入するとき、既に私たちは「円」というものが何なのか日常的生活から知っていることが多いです。

しかし、その「円」も大雑把に見ていることが多いのです。

例えば、人が輪になった時、上から見れば円ですが、この円には内に何もありません。
しかし、10円玉や、浮き輪なども円だと認識することがあります。

これが、山口先生の言うところの一種の「あらさ」(大雑把な)数学になるのではないかと思います。

この2つの円(円内(中身)が詰まっている、詰まっていない)も、円周が大切であることは自然と分かるはずです。

というところで、円周があるものを「円と定義」するのが普通に思える。
(これが円の定義を導入する時に、良い話になるのではないかと思いました。)

この「定義」するところが「数学らしさ」なのでしょう。

数学の本を読むと、いかにも「定義」が先にありますが、ほとんどのことは「定義より先に例がある」はずです。

なので、私は極力その本にある例は解いていました。(今は時間がないという理由で、飛ばすことが多いのですが、本当は良くない)



少し話がずれました。

他には、公理主義・実在主義・経験主義と言った3つの立場を説明し、その繋がりを感じさせてくれましたね。

また、「数学が役に立つのか」というある意味永遠(?)のテーマに対しては、技術者(数学を使う専門職の人)に対して、「数学がためになるかどうか」と問うことと、「数学が必要ですか」と問うことの反応の違いから、導いていたりします。

話が前後しますが、1部のセクション2には、「数学が分かった」と言える基準を1つ例として(数学者の話)出して、研究におけることにつなげています。


この本は、数学をある程度学んだ人でも十分楽しめると思います。

もっと詳しいことを知りたい人は、是非読んでみてください。

---
「見える学力、見えない学力」を読み始めました。
これもかなりいい本で、1970,80年代からの教育崩壊の歴史や、どうするべきかを色々な見方から考えてくれています。
これは、教員・教員志望に限らず、子どもを持つ親御さんに読んでもらいたい本に感じます。
そうすれば、もう少し良い方向に今の「教育委員会叩き」が変わるのではないかと思います。

ではでは。後日、「興味を持った分野:格子点問題」の話もまとめてみたいと思います。

2012年3月1日木曜日

数学力の低下について

先日、ニュースにも取り上げられました、「大学生の数学力の低下」について書いてみたいと思います。
ニュース記事に書かれていた内容は、少し大袈裟(偏った?)になっているので、元の判断材料となった、日本数学会のページを参考にしつつ、塾講師をしていた立場から見る現役生の状況も考えてみたいと思います。

まずは、日本数学会の『「大学生数学基本調査」に基づく数学教育への提言』を読んでみてください。
細かい内容は、添付文書を読むと分かります。

さて、私は現在大学生であるので、この基本調査に至る経緯における数学の学力低下に当たる世代です。(幅広いですけど…)

経緯にある、心配されていること
(1)読解・表現など国語力 (2) 抽象的・論理的思考力 (3)知識に対する意欲や忍耐力といった、ごく基本的な能力が学生の間で低下しつつある 
論理的文章を理解する力、論理を組み立て表現する力が学生から失われつつある

これは、かなり頻繁に聞く文句だと感じていますし、実際そう思うことも多々あります。
いやはや、お恥ずかしい話ですが、私も大学の試験勉強において、多少の論理をすっ飛ばして学んだことも多いです。

そして、私の大学は偏差値で言えば、ちょうど真ん中ぐらいに位置する私立大学です。
周りを貶すわけではないのですが、大学教養レベルの線形代数・微積分学でさえ、計算はできても意味を全く理解していない人がとても多いです。

例えば、学部2年生の時にあったやり取りを紹介します。

Aくん「この重積分って正の値になるよね?」
私「(被積分関数が積分区間で常に正だから)そうだね。体積求めてるのと一緒だしね。」
Aくん「分かった。」
(試験後)
Aくん「あの重積分の値がどうしても正にならなかったんだけど??」
私「あれは負の値になるよ。(被積分関数イメージしたら当たり前だろ…)」
Aくん「は?重積分は正になるって言ったじゃん!!」
私「???」

てなんてことがありました。他にも、全微分の意味を知らない、テイラー展開の意味が分からない…。
数学科でさえ、使う公式・利用する道具を意味も分からずに使っている人はたくさん居ます。
彼ら(私も含まれますが)にとって、「論理的に理解をする」ことよりも「単位を取る」ことの方が重要なのです。
しかも、このように論理的に理解をしていなくても、「計算さえ出来れば」優秀な成績が付くこともあります。
そのような状況にあるのだから、ほとんどの大学生は「まともな勉強」をしようとは思いません。

つまり、私が言いたいのは、数学力の低下を嘆くのは良いですが、どこかで壁になるものがあるべきでしょう。
その壁が大学にさえないのに、高校・中学校で、どうやって壁を作るのでしょうか。

まずは、中学校を変えて、高校が変わって、大学が最後に変わることを望んでいるのでしょうか。

それが出来るのなら良いですが…。

私がここ1,2年で感じてきたことですが、高校生は悲惨な状況の人が大半。中学生は、2極化が激しい。(出来る出来ない、ではなく、考えている考えていないのレベルで)

数学力と言うよりも、論理的思考力と自立心がかなり低下していると感じます。
数学をマニュアル化して教えている教師や講師が多いからでしょう、理解しようとしている生徒が少ない。(数学に限りませんが…)

いやはや、彼らが成人して働くことを考えれば、他人ごとではなくなるはずです。
自分の子どもたちが、その人達の影響を受けることにもなりますからね…。

この1,2年は、私も生徒を選んでではありましたが、これ以上の学力低下が無いように、「自分で考えること」を、「何が足りていないのか意識させること」を重視してきたつもりです。
それが合わずに、衝突してしまった生徒も何人か居ましたが、負けてはいけないと思っています。

私が正しいとか、そういう風には思っていませんが、正しくないことは正しくないと伝えていこうと思います。そこから何を考え、自分で答えを出すか見守るのが仕事だと思っています。

と、なんか少し逸れて、偉そうなことを書き始めたので、ここらで終わりたいと思います。

2011年8月21日日曜日

『高校数学・新課程勉強会2011』に参加してきました。

本日(2011.08.21)、青山学院大学にて開催されました『高校数学・新課程勉強会2011』に学生ながら参加して参りました。
勉強会ブログは、こちら内容詳細)を参照してみてください。

感想ですが、まず「学生ながら」と思ったのは、会場に着いた時で、参加を決めた時には「学生の多いものだ」と勝手に思っていました。
しかし、実際には、学生はほんの一部であり、大半は大学教員・予備校講師・塾講師・高校教員と言った方がほとんどでした。
この勉強会に参加して、思ったことはたくさんあります。その中でも、やはり一番大きく思わなければいけないことは、同じ教員や、教える立場にあるもの同士が共通の意識と、情熱を持っていかなければならないと言うことです。
もちろん、全員がそのようなものを持てるわけではないでしょうが、少なくとも今回の勉強会に参加をした人数は居るのだ。やはり、情熱を持って、数学の知識をもって、教育に携わなければならない。
それを深く再確認をしました。

それでは、各講演内容を通しての感想をまとめて行こうと思います。

第一部
・新学習指導要領の概略とねらい
正直、私は学部3年生の頃に受けた授業の印象からも、文部科学省がやっている、この数学の目標やねらいがそんなに深く考えられたものではなく、お役所仕事のひとつなんだと言う風に思っていました。
私の周りにもそんな人は何人か居ました。
しかし、この講演を聞いて思ったのは、ひとつひとつ丁寧に言葉の意味をすくい上げると、どういう風に指導をしてもらいたいのか、また日本の数学をどうしていきたいのかが、盛り込まれていることが分かりました。
もちろん、それが全て実現をするわけではないのだけど、そういう基準が明確にあると言うことを私は今日知りました。(お恥ずかしい)
また、日本の数学の将来がやはり不安だと言うのは、みんなが思っていることだと思いました。
そのためにすべきこともある程度は、考えられている。それは確かにと思う反面、高校数学だけでは変わることができないなとも思えましたし、何しろ時間が足りない。
そう思えたのは、受験意識を中途半端にしてしまうから、こういう教育思考にならざるを得ない。
ゆっくり数学を学んでいけば、楽しさは見える機会が増えるが、受験に勝つことが出来なければ、進学校の看板は下ろさなければいけなくなる。
つまり受験システムも変えていかなければ、難しいのだろう。(特に統計が導入されたことで、今後が大きく変わるようだ。)

・「データの分析」授業で育む 分布に対する数理的視点と活用力
さて、ここで問題になったのは、やはり数学に必修として統計が入ってきたことだ。
例として、進学校では統計を3コマ程度で終わらせて(知識を詰め込むだけ?)、他のところに力を注ぐと言うもの。
受験を意識したら、確かにそうなる。数学Bでは、統計を使わなくても数列・ベクトルを使えばセンター試験は乗りきれる。
しかし、統計を入れたのは、数学に興味をもってもらいたいからであって、受験をしない生徒や数学を専攻しない生徒(特に経済・商学・工学)なら統計を学ばせるべきと言う意見もあった。
この調整が難しい…。
正直私は、統計学と真面目に勉強していないので、自分が教える立場になることが不安であった。
それは、現職の教職員でも多いようだった。
しかし、それをサポートする勉強会と言うのもあったそうだ。しかし、今は予算の関係で出来ないでいるそうで、今後がどうなるかが問題となる。
私はまだ2年学生を続けるので、ちょうど参考書や教科書は整地されてきているころだと思う。
頑張って勉強しなければならないとも思った。

第二部
・新課程高校数学 高等学校の対応
高校を過ごす中での数学のあり方を実際に感じる内容。
私もなんとなく思っていたことのいくつかを、ズバッと言ってくれる内容でした。
高校数学のほとんど全てのことが、記述の答案を基準にすることで分かるという感じで、確かにそう思う。
また、進学校と中高一貫校の教材選択についてもお話を聞くことが出来た。
やはり、ある程度の進学校では、友達の議論によって成長をするのだろう。
正直、私の出身である高校や、高知県ではそんな話をほとんど聞いたことが無い。
それは、受験の意識の問題もあるのだろう。私はこの関東に住んで4,5年になるが、受験意識が異常とも思えるほど高いことは常に感じてきた。
小学生・中学生・高校生。受験の渦の中心が東京にあるからではないだろうか。
もちろん関東以外にも受験の渦がある。受験の渦があるのは、ある程度の都会でないと、存在しないだろう。
都会だから、みんなが競争心を持っているように思える。(これは私見)
話が少しズレてしまったが、その友達との議論から自分の考えを伝える表現力を学び、ちゃんと論理的に正しいこととは何かを学べるのだと思う。
それが、数学の解答にちゃんと現れてくる。田舎であれば、その状況をどう作るか、目標をどう作るかが問題になってくるんだろう。

・新課程のセンター私見などの大学受験への影響と対策
これも、私が最近生徒によく感じたことを仰っていた。
私の勤め先である塾では、ほとんどの講師がそんなことはないと言う風に捉えており、私の教え方を批難するようなことも何度かあった。
しかし、やはり間違っていないことだと今回そう思えた。「数学とは何か。」「数学の本質とは。」をしっかり感じる・学ぶためには、質問し返したりすることが重要であり、何でも教えてあげるというのは、ダメなんだと言うこと。
私がやってきて、失敗だったことと言えば、厳しくしすぎたために生徒から逃げられることが多くなってしまったことだろう。
そこの駆け引きが上手く出来なかった、正確に言えば(言い訳をすれば)、去年度の受け持った生徒は、それでも立ち向かってくる生徒ばかりだったが、今年度持った何人かの生徒は、所謂数学暗記型が根強くあった。
勉強も、「解答を読むだけ」と言うのが多く、時間をかけて勉強すべきことを短時間でやり、どれだけの量をどれだけ短くやるかが念頭にあるように思える生徒ばかりだった。
私は、それを上手く伝える術を知らず、丁寧にひとつずつ否定を確認していったから、生徒から見れば、数学を教えてくれない先生だったのだろう。
しかし、今日の講演で残った言葉として『「教えないでいい」ものは教えない。』というもの。
例えば、一度教えた数学Ⅲなどの微分・積分の計算。自分で復習すれば分かるものを、丁寧に一から教える必要は無いと言うことだ。
まずいのは、なんでも教えてあげる先生だと言うこと。そこの駆け引きをもっと上手くしないと、生徒から逃げられるだけになる。
それを上手くするのが、私の課題かも知れない。私は、ちょっと極端すぎたのだ…。

以上です。非常に充実した、5時間でした。

---
以下、青山学院大学の感想。
表参道駅から歩いたのですが、オシャレな街に溶け込んでましたね。
歩いている人もみんなオシャレでした。(何を基準にオシャレと言っているのか分かりませんが)
そして、大学。入り口と壁は、大学だなーと言う感じでしたが、入ると異国の匂いを漂わせるキャンパスでした。
しかし、とても大学っぽくはあり、少しでしたがキャンパスライフを感じました。
また、機会があればお邪魔しにいくのかも知れません。

2011年7月15日金曜日

自然対数の底 について

理系や、数学Ⅲまで習った人なら、このの定義について問われると、なんだかよく分からないけど、何かの極限値だった気がすると思うのではないだろうか。
ある程度勉強した人なら、あの形が極限の問題に出てくることがあるので、覚えなければならないと躍起になって暗記している、または暗記したのではないだろうか。

しかし、定義だからと言って何もかも覚えるのでは面白く無いだろうし、『何かの値に近づくことが分かるよね。』と教科書には書いているが、それが実際に収束するか、どうかなんて分からないのが極限だったはずなのだ。

例えば、 この級数は発散するが、 この級数は収束する。
ちょっと値を入れただけで、収束するかしないかなど到底言えないことは、伝えられてきた、習ってきたはずなのに、何故自然対数の底では、そう教えられてしまうのか。

これには、この後で扱う問題が比較的解きやすくなるなどの実例があるから高校数学に盛り込まざるを得なかったからであろうと思う。
現状の数学教育では仕方の無いことで、そこをとやかく言うつもりは無い。

では、今回はこの後出てくるや対数微分を習ったところで、この自然対数の底について考え直し、極限の形を覚える必要がなくなることを伝えたいと思う。

これは比較的簡単に見つけることができるので、この話は受験生は是非覚えておいたほうがいい。実際極限の収束・発散は、いくつか覚えなければならないことが多すぎて嫌になるが、大半は先の話を知っていれば、覚える必要は特にないのだ。

それでは、この自然対数の底について、3つのアプローチを考えてみた。もちろん本質的には同じだが…。

1.微分係数との比較

2.を微分の定義にしたがって微分する。


ここまで来れば,後はいつもやっているただの微分公式と見比べれば,に収束している場所が分かるでしょう.

これぐらいでしょうか。もちろん、これらは単独で問題となることもありえますが…。
覚えるという感覚では無くなる気がします。

本質的な部分では、もっと違う方面から出てきそうですが…。まぁ覚えるよりは良いとは思うような気がしないでもないです。
の微分を定義通りにやっても同じ式が出せますが、こちらは小々遠回りな気がしないでもないです。もちろんこっちの方が本質っぽさはある気がします。

2011年7月4日月曜日

数学教員・講師or数学科生へ


浪人時代に自分がぶち当たり、塾講師を始めた最初の年に質問された内容。
また、最近になっても聞かれたことがあったので、あげてみました。

面白い内容だと私は思います。


---
そのうち、私の思ったところまでまとめてみます。ちょっと院試まで時間が無いので、いつになるか分かりませんが。

2011年6月21日火曜日

教科指導について

数学を教えることの難しさは、もう塾講師も4年目になるがいつも思う。
特に、私自身も教え方を変えて、生徒の様子・反応を観察している。

最近塾で若手のホープとされる先生が模擬授業を行ったのだが、その授業を例に少し考えてみたいと思う。
その授業では、二次関数の最大・最小を求める問題について行った。

黒板に、「大原則」と称して
1.平方完成をする
2.の係数を見てグラフを書く
3.定義域と軸の関係を見る

などと書いてから、例を扱い演習を行っていく授業であった。

このように、私は「何かを求めるための一連の動作」を明確に日本語として書くことがあまり好きではない。
マニュアル化している感じがして、ちっとも数学らしさを感じ無いのもある。

もちろん、実際に求めようとすると上と同じようなことを辿るのだが…。

そして、好きではないが、私はこのようなマニュアル化した授業を行ったことは、もちろんある。
二次関数に限らず、群数列などの問題でも、その問題の聞かれていることに対して1つずつどう求めるかを丁寧に、原則とは書かなかったがマニュアル化みたいなことはした。

自分でやっていて、どうなんだろうと思いつつやったが、生徒からの受け・反応は良かった。

「こうやれば求まる」というのが、見えるからだ。
けれど、待って欲しい。それなら教科書にそのまま書いている。少し小難しく書いていたりはするのだが、教科書にもほぼ同じようなことを書いている。

いい例としては、数学的帰納法なんて、本当にそのままに書いている。
しかし、あの書かれた内容だけで、数学的帰納法が扱えるようになる人は、ほとんど皆無だろう。

そこからも、私は思うのだけど、そういうマニュアル化は、一時的に数学への理解へ近づいたように思える・錯覚するのだが、1つ1つの操作で何をしているのかがちゃんとリンクしているのかが分かっていなければ、数学の能力が備わっているようには思えない。

そのようなマニュアル化は、私はしない方が良いと思っている。したいのなら、生徒が勝手にやるべきで、先生がマニュアル化したものを教えることによる弊害は大きいと思える。また、数学と言うものを誤解してしまう気がしてならない。

1つ1つの操作を感じ、自分の血・肉にするために自分で演習問題を解く。1問,2問解いただけで、その単元を自分のものにしたと言える人はなかなか居ないだろう。
何度も解いて、間違えたりすることで、やっと自分のものになる。

あってるか、あってないかを不安になりながら解いても、得られるものは少ない。
1つずつの操作が、こうだと認識していくためには、間違えることも大切なのだ。

その間違えることを意識的に避けようとしているのが、マニュアル化であるような気がする。

もちろん、ケースバイケースであって、このようなマニュアル化をした方がいい場面ももちろんあるだろう。
例えば、ある関数または曲線の漸近線を求める操作(一次近似)は、教えることがなかなかに難しい。

どういう操作をすれば、漸近線が求まるというマニュアルを教えることはできるが、それをしっかりと説明するのは、直感的なものしかない。

マニュアル化で、一番激しく出来るのは、三角比の正弦定理・余弦定理だろう。
どの辺と各の関係が分かっていれば…とすると、何通りかをマニュアル化して書くことはもちろん出来る。
けれども、そんなことをして意味はあるのだろうか。

また、しばらくは、教科指導について考えていこうと思う。

2011年6月1日水曜日

教育実習

先日、教育実習が終わりました。なので、今回学んだことなどをまとめてみようと思います。
これから教育実習に行かれる人の参考にもなれば良いなと思いますが、自分の為に書いているので、多少分かりづらいかも知れません。

まず、今回私は中学校へ3週間教育実習に行きました。
2週目に、運動会があると言う事で、1週目・2週目のほとんどが運動会練習などになり、あまり教育実習と言う感じでは無くなった部分はありました。

学年は、2年生を担当し、数学の授業は、1年生・2年生で行いました。

教科指導と生徒指導について、まずは書きたいと思います。(生徒指導は、教科指導にももちろん含まれてますが、主にということで、別けてみたいと思います。)

・教科指導について
私は、今年で塾講師4年目であり、そこそこ授業には自信がありました。と言っても、高校生を教えることが多いので、中学校の教材研究など課題は、少しあるかなと感じていました。
しかし、実際授業を何度かしてみると、塾と中学校のクラスでは、やはり勝手がかなり違いました。
塾へは、「勉強をする」意識が多少なりともある人が通っているから、注意をすれば、大抵は落ち着いて聞きます。
しかし、公立中学校では、それが通用しないことも多いです。また、機嫌や疲れを先生側も感じ取り、それに合った授業展開をする必要性がありました。
無理に起こして、逆撫でてしまい、授業妨害や酷ければ学級崩壊にもなるだろうことが分かりました。
また、授業に関係ないであることも少しは、拾ってあげたほうが親しみやすいのかも知れません。
この単元・授業中に、一番大切なところは何なのかをハッキリと、意識させることも必要だと思います。
数学に関して、私たち数学科は、ほとんどが大切な部分ばかりで、教科書にあることで分からないことなど無くして行くほうが良いと考えることが多いですが、生徒はそれが分かりません。
なので、例えば、文字式を利用して証明問題を解くなどのことで、重要だと教えるのは、文字を利用するという点で、証明をさせるのは、普通の公立中学校には難しすぎるということ。それを理解して、生徒に伝えなければ、生徒はただやらされているだけで、何が重要なのかが分かりません。
それをしっかりとした話の抑揚や、注目をさせて認識させることが重要だと感じました。
私も最後は、それが出来るようになりました。

また、これは実習後の報告会(研究室)での教授が仰ったことから、私が感じたことですが、中学校の知識は、もちろん小学校の知識が必要です。小学校でどのように教えているのか、その教材研究はしなければいけないだろうことが分かりました。
教科指導に関しては、教具などを使用し、復習時間を短縮したりする方が良いと思います。
復習自体に20分もかけてしまうと、本題が薄れてしまうこともありますので。

研究授業に関しては、一応合格点は貰えましたが、公立中学校に対しての授業としては、盛り込み過ぎているなど、効率中学校の現状を知っていないことが分かりました。

ちなみに、私は2週目から教壇に立ち、多いときは一日4時限、平均2時限授業をさせて頂きました。(2週目は、運動会練習でそれぞれ半分ぐらいですが…)

・生徒指導について
先述した通り、私は塾の高校生に慣れすぎて居て、ある程度フレンドリーに接すことを心がけようとしました。
それが今回の件では、完全な失敗でした。私と生徒の距離がとても近くなりすぎて、「先生」と呼ばれずに居ました。
3日目ぐらいから、これでは不味いと思っていたのですが、1週目は忙しさもあり、なかなか変えることが出来ませんでした。
私自身、その方が楽で、楽しくも感じていた部分がありました。
2週目から、生徒への対応を変えて、しっかりと先生と見られるようにしなければと思いました。それは、2週目からショートホームルームを任されるようになったからというのもありました。
自分なりに考え、色々こなしてみましたが、なかなか上手くいかず、最後には、少し力づくで制止したりして、言う事を聞かせようとしてしまいました。
その時になって、自分の指導力の無さを感じ、ホーム主任に相談に行きました。
ホーム主任にも、あなたは1週目はフレンドリー過ぎていて、2週目から試行錯誤しているのは見て取れたと言われたときに、ホーム主任にも見抜かれているんだから、相当な失敗をしてしまったと思いました。
また、自分だけでどうしようも出来なかったことから悔しくて、少し泣いてしまいました。
ホーム主任からアドバイスを頂き、その後の2週目、3週目はどうにか持ち直していきました。
最後まで、「先生」と読んでくれない生徒も居ましたが、それは自分自身のせいです。

私は、中学生という多感な時期(特に2年生なんて、一番多感であり、思春期だと思う)の生徒への最初の対応が間違いでした。それが今回一番の収穫だとも思えます。

こんなことを言うのもなんですが、同じ実習生は、最後まで「○○ちゃん」と呼ばれていて、その実習生自体もそれを心地良く思っていたみたいですが。
やはり、「先生」であるという自覚を持ち、それを常に意識することの大切さ・大変さを痛感しました。

高校生では、少ないかも知れませんが、同じようなことはあるかも知れません。
また、数学の先生を目の敵にしている生徒も居ます。多感な時期だからなのかも知れませんし、それはちょっと今回分かりませんでした。目の敵にしている生徒は、「女子」しか居なかったように感じるので、それは個人の性格の問題なのかも知れません。
私も、心では傷つき、心が折れそうになることも何度かありましたが…。

また、部活動についてですが、私は体型の割に運動・スポーツは得意です。(自分で言うのも何ですが…)
なので、色んな部活動に参加してきました。
もちろん見るだけのもありましたが、卓球やサッカーは、自分も中に入ってプレイしてきました。
特に私がオススメするのは、団体競技のサッカーなどですね。
生徒と一緒に汗を流し、必死に頑張る。生徒も近づいてくれますし、生徒自信も先生が一緒にプレイすると楽しいみたいで、来て下さいと頼まれることが多かったです。

ただ、私は運動をしばらくしてなかったので、体がボロボロになりましたが。日誌なんて、部活動後に書けば良いと思います。
日誌に必死で、部活動に参加しない・遅れて参加するなんて、生徒が可哀想ですよ。

色々と通して分かったのは、先生たちの大変さ、中学生の力、多感な時期での接し方、先生と言う立場について、再考させられたと思います。

高校の実習に行っていない私が言うのもなんですが、本当に教員になりたい人は、中学校に行くことをオススメします。
1年生、2年生、3年生がそれぞれ色が全く異なります。それぞれへの対応の難しさと楽しさを感じることが出来ると思います。
また、真剣に・真面目に教育実習をすれば、色々と悩むのが普通だとも思います。そういう時は、同じ実習生と話をしましょう。

辛かったけど、楽しかったです。ありがとうございました。

P.S 担当のクラスからは、最終日に全員が手紙を書いてくれました。嬉しかったです。

2011年5月5日木曜日

『才能』とは

私は、別に数学に才能があるとも思っていない。

その才能と言う言葉が、何を指しているのかは、厳密には分からないが
大学入試などで出会う、新しい形の問題をすぐさま解けるぐらいの才能はない。

粗探し、間違え探しをする才能はあると思う。

私の高校は、工業高校であり、進学をする人も殆どは、推薦やAO入試などだった。

そのため、私みたいな人間でも、高校1年の時の模試では、校内1位であった。(国語以外は、すべて1位で、総合1位だった。)
また、高校2年生の時に、3年生も含んだ校内数学模試(?)みたいなので、1位にもなってしまった。

さらに、高校2年生の夏前か、夏後ぐらいの模試では、県内3位になった。

自分でも才能があるんじゃないかとか、勝手に思っていた。

だけど、それは大きな間違えだった。

高校2年生の数学では、微分を習う。
その時、数学の先生は、「連続と微分可能」について中途半端な知識を与えてくださった。

私は、その時に「連続ならば微分可能とは限らない、だから微分可能であることを調べる必要がある」とぐらいに受け止めていた。

それだけを受け止めていたから、中間試験において出題された微分に関する問題は、私に取っては、どうすればよいか分からないことが多かった。

・定義に従って微分せよ
・微分せよ
・接線を求めよ

など、色々あった。しかし、どの問題にも、その関数が微分可能であるとは書いていなかった。
だから、私は最初の問題から詰まっていた。

「まず、微分が可能であることを示さなければならない」と書いて
色々と模索はしたが、実数上で微分可能であることの証明など高校では扱わない。
それを私は、自分の勉強不足だと思い、この試験では結果が出せなかった…と思い込んだ。

しかし、試験終了し、周りがみんなすべて解けた、時間が足りなかったと言う話をしている中、私は一人、悔しい思いをしていた。

だが、その後、担当の数学の先生に呼び出され、「高校で習う関数のほとんどすべては、微分可能だから、そんなことは気にしなくてよかった。今回のこれに関しては、点数をあげるわけにはいかないけど、次の試験などを考慮して、成績は付けるから、頑張れ。」と言われた。

その時にやっと、高校数学というものが、いくつか曖昧なものを残していて、ある程度は騙して教えていて、解かなきゃいけないのだと知った。

しかし、この時に、自らなぜだと思い、大学生が読むような、数学書を読まなかったのが、私にとっては、不幸だったのだろう。
学校の先生も薦めてくれれば、私はもっと数学の世界を早くに知れたのに。

そんなことを今更思っても仕方がないのだから、今もう一度勉強をするのです。

そして、もう一つ。

大学に入って、数学が数学ではなくなったとか、数学が哲学になったとか。

そんなことは言わないで欲しい。初学者が、数学に困惑するのは、高校までの数学が科目名としての数学でしかないということを感じていないからだと思う。

大学の数学の方が、もっと理論的で、精巧なものだろう。

その最たるものが、ε-δ論法であるとも思う。(学部1年生なら)

2011年4月25日月曜日

問題:任意の四面体を平面で切断するときに,切断面が平行四辺形になるように切断できるか.

こんな問題があるとギョッとしてしまいます。

中学生までの知識で、これは示せるみたいですが(友人談)、このような問題の書き方をすると一般的な中学生は、まず解けないでしょう。

では、これならどうでしょうか。

問題:空間の4点A,B,C,Dに対し,線分AB,AD,CB,CDをそれぞれm:nに分ける点P,Q,R,Sは,平行四辺形の4頂点となることを示せ.(斎藤正彦『線形代数演習』p4-11)

ちょっと中学生でも解ける人が出てくるんじゃないかなという問題のレベルになりますね。

もちろん高校2年生以上ならベクトルや座標(この場合はベクトルの方が遥かに簡単で、座標では解けない…気がします)を使って解くことが出来るでしょう。

この問題の言い換えが数学において非常に重要なことは、数学を学校の試験勉強だけで終わらせなかった人ならば、ほとんどの人が感じ・思っていることでしょう。
(もちろん今回の問題の言い換えは、飛躍し過ぎていて、分からない方が普通かも知れません。(上から下))

大体、学問を学んでいるときに、いきなり分からないところにぶつかることはないはずです。
もし、いきなり分からないと、周りも感じているのなら、それはそうなのかも知れないが、大抵は、自分一人がそう感じることが多い。
それは、そこまでの知識がちゃんと定着していないからであって、ちゃんと段階を踏んだ学習をしていないことが原因でしょう。

それは、数学に限らず、ほとんどの学問に対して言えることでしょう。
もちろん、学問に限らず、スポーツでも同じようなことが言えて、サッカーで、ドリブルが出来ない人が、シュートの練習やヘディングの練習をしたってどうしようもありません。

まずは、自分で練習することです。その時に、練習の見本となる人が、先生だったり、参考書であったりするわけです。

大抵の学問に対して、出版社がそれぞれのレベルにあった参考書を出版しています。それを自分で見つけることです。
相談しても良いとは思いますが、それがあなたに確実に合っているものかどうかは、自分しか分かりません。

特に、大学生は、これを実践すべきでしょう。時間にかなりの余裕があるのに、(または、大学に勉強をしたいと思って、希望を持って入学したのに)全く学問の本質を知ろうとせず、単位を取るだけの試験勉強にだけなっているのなら勿体無い話ですね。

恋愛、サークル活動、学生団体、アルバイトなどなど、勉強以外にもした方が良いものはたくさんあります。

しかし、それはある程度の勉強が基本にあってからすることであって、勉強をしない言い訳に「勉強以外にも学ぶことはある」と言うようでは、本当に「勉強以外のものの大切さ」を感じてはいないでしょう。

特に、私立大学生や、ある一定の偏差値を下回る大学に所属している人は、明らかに「知識の偏り」があります。

そのような人が、学部1年、2年生で「勉強以外のことを学ぶ大切さ」など感じるはずがありません。

それは、本当の「大切さ」からは、かなり外れた・遠いものでしょう。
その後に気づけば、それはまたよしだと思いますが、気づかないで、結婚し子どもが出来たり、教育者として生徒の成長に影響を直接的にもたらす機会が多い人がその理念を元に、物凄いことを言わないことを私は願います。

私自身、勉強をそれほどしたと言える立場でもないですが、児童・生徒に対して、あるいは同じ大学生に対して、もっと意欲を持ち、勉強をしなさいと言いたい。

もちろんその勉強の対象は、数学や国語、英語などの科目に限ったことではないです。そうすれば、大学生になったとき、あるいは、大学を卒業するときぐらいには、自分が何をして生きていたいのかが見えてくるのではないでしょうか。

何もせず、ぼけーっと生きてても、自分のしたいことは見つかるはずがありませんからね。

2011年4月24日日曜日

私は、数学が好きです。

中学校までは、特にそういう気はあまり無かった。

とにかく数学・理科は、好きだったのは覚えている。

国語が苦手だったのは、問題の意図を理解していなかったからだ。

選択肢には、想像を膨らませば、その可能性もあるし、その可能性の中でも最も重要であろうものを選び解答していた。

もちろん、それでは、合わない。国語は限られた文章の中から、「確実に言えること」を選ぶのであって、可能性を考える問題ではなかったからだ。

それに気づいたのは、浪人した時に霜栄先生の本を読んで、やっと気づいたのだが…。

未だに思うのは、高校までに「勘」で解いている人は、「可能性」は考えない人たちなのかなと思う。

そこが理系との差なのだと思う。

私は若干理系であるからか、「ありえるだろうすべての可能性」を考えながら、その問題に取り組む。

その可能性はもちろん、私が考える事に限られてしまうのだが…。

物理では、どうしても先に現象を認めてしまわなければならないこともある。

そこから理論を組み立てていく。(数学にも似たように、予想をし、その予想が正しいのかどうかを考えることはあるが、その予想と現象を認めることは、少し異なるように思える。)

数学はしばしば、拡張して考えることをする。自然数を整数に、整数を有理数に、有理数を実数に、実数を複素数に。これは数学で一番初歩的な拡張であろう。

さらに言えば、2次元ベクトルを3次元へ、4次元へ、...、n次元へ。

数学ではあらゆる可能性を考え、それが成り立つのか・拡張できるのかを考えていく。

そんなことを実際、肌に感じたのは、学部2年生になる直前だった。

ちょっと話を戻し、私が数学と言うものに惹かれていった経緯を書いていこう。


私は因数分解は嫌いだった。だから数Ⅰの最初、数と式はつまらなくてどうしようもなかった。

数学なんてものが好きになるなんてこの時は微塵も感じ無かった。

私の高校は、工業高校だったため、1年次には数学Ⅰのみ、2年次に数学Ⅱ・A、3年次に数学Ⅲ・Bを習うのが普通で、それでも進学希望者だけで、それ以外は、数学ⅡとAまでしか習わなかった。

高校2年に上がった時、大学進学すると決めることになり、数学を授業と放課後補習と、塾に通うことにした。

その塾が私にとって、天国だった。先生は数学科出身で、私に数学というものをどう捉えるべきか、初歩的なことを感じさせてくれた。

それからは、公式・定理・あらゆる証明に興味を持ち、モノグラフ(公式集)を暇なときはペラペラめくり、読んで唸り、さらに教科書を読んでいたりした。

それからどんどん数学が好きになり、教員も目指すことになる。

だから教育学部数学科を考え、受験する。だが、失敗する。

もちろん合格した大学はあったが、自分が進学したいと思えるところではなかった。

そして、浪人し、大学への数学と出会った。この時に、モノグラフ(公式集)に興奮していた私は、まだまだ数学の凡人で、それ以上の数学に興奮を覚える内容がそこにあった。

それからは、教育学部数学科ではなく、理学部数学科を目指すことになった。

浪人も完全なる成功にはならなかった。が、同じ数学を好きだと言う人にも出会うことが出来た。

また、最近では、活動も広がり、もっと数学が好きな人との空間を共有することが増えた。

それに感化された部分もあり、私は数学を学ぶために大学院進学を考えた。

そして今に至る。

また、私がこれを通して伝えたい事は、自分が真に好きなことは、長く色々とこなせば見つかるのだと思う。

単純に大学進学したときに、○○学科だったから、それを学ぶしか無いのだと思うのでは勿体無い。

私はたまたま数学科に行くことで、自分が真に学びたい・好きであることが分かった。

学問が苦手なら、大学の勉強以外にも打ち込めることはたくさんある。それをすればいいと思う。

そこで、自分のしたいことが見つかればいい。だけど、いい加減な決め方としてはいけない。

それが本当に好きなのか、そうではないのか。それは自分が熱心にそれに打ち込み、ちゃんと学び・感じなければ分からない。

なんとなくで決めては、もしかすると取り返しのつかないことになるかも知れない。

2011年4月4日月曜日

勉強の仕方、復習の仕方

私は、昨日生徒を授業中に泣かせてしまいました。
どうして泣かしてしまったのか。

その概要を話すために、具体的例も混ぜながら書いてみます。

授業中の単元は、数学Ⅲの極限。
4月2日に数列の極限、4月3日(昨日)で無限級数の話をしていたときのことだった。
説明を一通り済ませ、問題演習に移るところ。
ちなみに、それまでに私は「数列の復習をしておくこと、数Ⅲの最初で躓くことになるから」
と伝え「数列の復習」をすることを意識させた。
本人もそれを覚えており、4月2日から「数列の復習しましたよ!」と張り切っていた。

という、前提があります。
そこで、無限級数の問題。(私が2問ほど、手本に解いた状態)
部分分数分解を使う問題が出てきた。
もちろん、無限級数のそれぞれの項に当たる一般項を求め、部分和を求めて極限を取ると言う操作自体は覚えている。
しかし、一般項を求めた時点で、その一般項の極限を無意識でしようとする。
まぁ、よくある話なのだが、目標がnで表される何かだと思い一般項にもnが含まれてるからと勘違いしたんだろう…。
それは仕方ないなと、思いながら次の部分和を求める。

ここで、止まる。数列の復習をしていれば、「いろいろな数列の和」などで扱う部分分数分解をして、処理して上手く消して部分和を求める。
これがスムーズに出来ない。しまいには、それぞれの項を出し、通分していこうとしていた。

そこで、私はストップをかけ、「数列の復習はしたんだよね?部分分数分解という言葉は、覚えてる?」
その呼びかけに対し、無言というか、首を傾げる。
「復習は、どうやってやってるの?」と聞くと、一枚のプリントを持ち出した。

そのプリントには、等差・等比数列の一般項、和。∑の計算の仕方。階差数列の一般項の出し方。
等比型の漸化式の解き方、数学的帰納法の解き方。教科書を丸写ししたかの様な、公式を羅列したものだった。

「こういうプリントを作って、問題は解いたの?」と聞くと、「解いてないです。どの公式が部分分数分解ですか?」
と聞き返されたので、「このプリントには乗ってないね」というと、「じゃあ、どこの教科書を写せばいいですか?」と言う。

そこで、ちょっとキツイけども「こんなプリントを作っても、復習とは言わないよ」と言うと黙りこむ。
「復習って言うのは、その問題・単元が解けるようになって、初めて復習が終わった・出来たと言うんじゃないかな?」
というと、顔を背ける。
「そうじゃない?こんな公式を書いて覚えるだけで、満足?問題が解けて、初めて満足できるし、次に進めるんじゃないかな?」というと、泣き出してしまった。
泣きながら、「だって、他の先生がノートに公式を書けって…」というから、「確かに公式を一箇所にまとめるというのはいいと思うけど、それが使いこなせて、数列だったら数列に関する問題が完璧とまでは行かなくても、9割解けるぐらいになってようやく、復習できたと言うでしょう?現に、数学Bで習う部分分数分解をして和を求めるという問題が解けていないんだから、復習が出来ていないんだよ。」

ここで、5分ぐらいは、気持ちが滅入ったのだと思うけど、声が出せないような泣き方になったので、いろんな話を横でしてた。
部活動でも、料理でも、何でもそうじゃないかなって言う話。次のステップに進むには、そのためにはと。
頭を立てに振ったり、横に振ったりは出来てたので、質問しながら話をしていた。

それから生徒が「じゃあ、復習の仕方、勉強の仕方ってどうすればいいんですか?」と聞いてきた。

私は、「そんなの王道が一つあるわけじゃないし、君に合うやり方があるはずだよ。公式をまとめて、全部完璧にこなせる人も居れば、出来ない人も居る。自分で勉強方法は見つけなきゃいけない。そのために、私たち先生は、アイディアを出したりする。けど、それがいつでもあなたにあった勉強方法で、復習ができる、勉強ができるようになるかはやってみた本人じゃないと分かんない。」
生徒は首を傾げ、「じゃあ、私どうしたらいいのか分からない。」と。
「じゃあ、今日は残りの時間を使って、あなたに合いそうな勉強方法を考えよう。」とした。

この後、それを30分から40分して、授業は終わった。「明日(4月4日)、どうやって復習して、どうなったか聞くからね」と聞いたら「はい、大丈夫です。頑張ります。」と答えてくれた。
良かったよかったと。

さて、ここでですが、途中の太字部分が今回考えたいことです。

私は常々このように考えています。勉強法・復習法に完璧な解答はないと思ってます。
人間の生き方、人生の歩み方に完璧な解答がないのと同じぐらいそう思っています。
もうちょっと進んだ(分別のある人に対してなら)、宗教とは違うという話もします。

もちろん、ある程度の決まりごとはあるはずです。人生の歩み方で、人を殺めてしまっては、人道を外れていると言われるのと同じぐらいに。
そのある程度の決まりごとにも、いくつかのケースはあります。
復習をし、前までのステップ全てが分からないと、次のステップに進んじゃダメかと言えば、そうではないと思います。
少し、次のステップに進んでみたら、前のステップのある部分が見えたりすると思います。

そうして、体系を整えていくんじゃないんでしょうか。

今回のことで言えば、部分分数分解の基本が見えないのは、ご法度です。でも、部分分数分解でも、かなりややこしい問題は、解けなくてもいいと思っています。
例えば、こんな問題です。
こんな問題が、今高校3年生になったばかりの生徒は解けなくても良いと思っています。
(もちろん、難関校受験をする人なら、そのうちマスターして欲しいですが)

だから、本屋などに「勉強法の極意!」みたいなのがあると、ムッとして、手に取って読んでみます。
まぁすると、大体書いていることは、「そうすれば出来そうだな」と思うようなことが多いです。
けど、そう言う本も大体「勉強の仕方は幾つかあることを」明示させています。
私が今欲しいのは、「成功法」より「失敗法」なんじゃないかと思いますけどね。
どうしたら失敗するのかというのは、非常に重要で、なぜダメだったかを考えた方が、次に繋げられるはずです。
なぜ成功したのか。というのは、なかなかに「運」に頼ってるものもありますからね。

例えば、最近聞いた話だと、どうして教員採用に受かったのか。

その先生はこう言いました。「私立の中学・高校で、その学校の校長が私の親戚だった」と。
そんなの聞いても、どうしようもないですからね、私たち。

だから、もしこの記事を受験生が見たのなら、今の勉強法・復習法を見直して、果たしてこれが正解かとか考えるのではなく、どこに失敗する要因があるのだろうかと考えた方が良いと思いますよ。
大体自分の思ったように、知識・学力がついてなかったら、どこかに要因があることが多いと思います。
もちろん、時間をかけてじっくりやらなければならないこともありますが、高校の勉強に限っては、そこまで長く辛抱強く、粘ってようやく獲得できるものというのはないでしょう。
せいぜい1ヶ月,2ヶ月で、半年や1年はないです。1ヶ月,2ヶ月やってみて、何か力ついてないなーと思ったら、今一度見直しましょう。
客観的に見てもらうためにも、他人に相談するのもいい事だと思います。

そういう時に、同い年、先輩、はたまた先生。何人かに聞いてみることは大事です。
誰か信頼できる1人に…と思うかも知れませんが、それじゃ客観性はあまり得られないと思いますよ。

頑張りましょう。僕も頑張ります。